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仙台地方裁判所 昭和49年(ワ)801号 判決 1977年3月14日

原告

長南サカエ

原告

長南由美子

原告

長南健一

右原告由美子、同健一未成年につき

法定代理人親権者母

長南サカエ

右原告ら訴訟代理人弁護士

小林昶

外三名

被告

ソニーマグネブロダクツ株式会社

右代表者代表取締役

戸沢奎三郎

右訴訟代理人弁護士

三島保

外四名

主文

一  被告は、原告長南サカエに対し金一〇六九万八二二二円、原告長南由美子、同長南健一に対し各金八四九万八二二二円および右各金員に対する昭和四九年四月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの、他を被告の各負担とする。

四  この判決は第一項は限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告は原告各自に対し、金二〇四一万九〇八五円およびこれに対する昭和四九年四月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの連帯負担とする。

3  予備的に仮執行免脱の宣言

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  当事者

(一) 原告長南サカエは亡長南褜吉(以下「褜吉」と略称する。)の妻であり、原告長南由美子、同長南健一は褜吉と原告サカエとの子である。

(二) 被告は、磁気テープおよびフエライトの製造販売等を業とする会社である。

2  褜吉の死亡に至る経過

(一) 褜吉は、中学生時代に陸上部の選手をつとめたほどの健康体であり、宮城県工業技術公共職業訓練所卒業(宮城県農業高等学校中退)後はトラックの運転手、電話の配線工の仕事をしており、これといつた既往症もない健康な男子であつた。褜吉は昭和三九年原告サカエと結婚し、その後二児(原告由美子、同健一)をもうけたことから、将来の生活等を考え、昭和四八年四月被告の入社試験を受け、応募者六〇名中の三名の合格者の中に入つた。

(二) 褜吉は、同月二〇日、被告に有期雇用者として採用になると、直ちに磁気録音テープを製造するテープ部門製造第一課塗布工程に配属され、プラスチックフイルムに大量の有機溶剤を含む磁性塗料を塗布し、乾燥させる塗布機「七三Bコーター」(以下「本件コーター」という。)の係となり、巻出部を担当していた。

(三) 褜吉は、本件コーターの係に配属されてから約八か月後である昭和四九年一月三日、新年会から帰つて激しく嘔吐した。従来一日おきくらいに飲んでいた酒も、以後は飲まなくなった。同年二月八日、食欲がなくなり、背中に黒い発疹のようなものが出て来た。この日から体調が目立つて悪化し、同月一二日には、近所の佐藤医院へ行き診察を受けたところ、急性肝炎と診断された。そして、同月一三日から塩釜褜済会病院に入院し治療を続けたが、病状は悪化の一途をたどり、褜吉はベツトの上を転げまわつて苦しみながら、「絶対に有機溶剤のせいだ。どこまでも会社の責任を追求してくれ。」と叫び続け、遂に同年四月二四日午後五時四五分同病院において死亡した。

3  本件作業場の環境および有機溶剤の肝毒性等

褜吉が塗布作業に従事していた屋内作業場(以下「本件作業場」という。)は、テープ部門製造第一課オーデイオテープ生産工場の一画にあり、直接外気に向かつて開放しうる戸、窓等の開口部がなく、「通風が不充分な屋内作業場」(有機溶剤中毒予防規則―以下「予防規則」と略称する―二条二号)、即ち、「天井、床及び周壁の総表面積に対する窓、その他直接外気に向かつて開放しうる開口部の面積の比率が三パーセント以下の屋内作業場」(昭和三五年一〇月三一日付基発第九二号通達)であつて、当時、本件作業場には、本件コーターのほか塗布機四二号コーターが設置されており、また本件コーターの一工程である塗布部は、本件作業場の一面を囲いで仕切つた塗布室の中に置かれているが、他の工程および四二号コーターの塗布を含む全工程とともに同一の作業スペース内で行なわれていた。そして、本件作業場では、昭和四九年二月当時、本件コーター、四二号コーターを合わせて月間四万五五四〇キログラムという極めて大量の磁性塗料を使用しており、磁性塗料には人体に有害な有機溶剤が多量に含まれていることからすれば、極めて危険な職場でもあつた。

ところで、本件コーターは、昭和四八年一月頃から、被告が両面加工の磁気録音テープを製造するため開発した大型塗布機で、同年四月頃から試運転を行ない、同年八月頃から本格的に生産を開始したものであり、他の旧来の塗布機、例えば四二号コーターとは比較にならないほど大量の磁性塗料を使用する(四二号コーターの一〇倍強)。その工程は、プラスチツクフイルムを巻出機で送り出す巻出部、フイルムに磁性塗料を塗布する塗布部、磁性塗料をドライヤーで乾燥させる乾燥部、フイルムを巻き取る巻取部からなつているが、その運転操作は、三人一組のグループで行ない、三グループの交替性で二四時間稼働させているものであり、その作業内容は、グループリーダーが機械の作動停止、不良品が出た場合の機械の調整等を担当するとともに、グループの指揮監督をも行ない、他の二名が巻出しと巻取りをそれぞれ担当し、このうち巻出しは、①フイルムを搬入してドライヤーの下にあるストツカーに格納し、②フイルムを巻出機にセツトし、③巻出機にセツトされたフイルムをボタン操作で前のフイルムに接続させるという作業内容であるが、以上の運転操作時の作業に加え、磁性塗料から磁性鉄粉を取り除いて再生した有機溶剤の洗い液を使用して行なう危険な塗布装置の洗浄や、ドライヤー内部の払拭作業も行なわれていた。褜吉はかかる業務の遂行において、以下のように大量の有機溶剤の暴露を受け、またその蒸気を吸引していたものである。

(一) 運転操作時

(1) 塗布室における有機溶剤蒸気の発生

本件コーターにおける磁性塗料の塗布工程は、混合工程から送られてくる有機溶剤と磁性鉄粉および接着剤を混合した磁性塗料を塗布機のタツチロールとカツプロールの間にノズルで供給してカツプロール表面に付着させ、このカツプロール上を巻出部から送り出される生フイルムを通過させてフイルム面に磁性塗料を付着させ、更にスムーザーでフイルム面を平にならしてフイルムを乾燥部のドライヤー内に送り込むのである。したがつて、このカツプロール、タツチロール等には常に大量(昭和四九年二月当時毎時82.5キログラム)の磁性塗料が供給されており、多量の有機溶剤の蒸気が発生する箇所であるが、これらカツプロール等の塗布装置(コーターユニツト)は、密閉する囲いもなく、作業中も外気と全く遮断されておらず、露出されたままの構造になつていた。このため、右塗布装置から多量に発生する磁性塗料中に含まれる有機溶剤の蒸気は、そのまま塗布室内に充満していたのである。確かに、塗布室には、床に局所排気装置が設置されており、屋内作業場において第二種有機溶剤業務を行なうにつき、有機溶剤の蒸気の発散源を密閉する設備、局所排気装置又は全体換気装置の設置を義務づける予防規則六条に対する違反はないかのように窺われるが、この局所排気装置の性能は、有機溶剤の発生量に比して極めて不充分なものであることから、発生する蒸気が充分回収されなかつたものである。このように、塗布室内には高濃度の有機溶剤の蒸気が絶えず充満していたのであるが、塗布室の出入口のドアは開放されたままになつていることが多く、また褜吉らが塗布室に出入りすることも少なくなかつたため、塗布室内に充満した有機溶剤の蒸気は塗布室の出入口ドアから本件作業場にも流出し、特に塗布室に直結する巻出部付近は、有機溶剤が多量に充満し、強い臭気を放つていたのである。

(2) ドライヤーからの蒸気漏出

本件コーターのドライヤーは、断面の横約1.05メートル、縦約0.9メートル、長さ約一三メートルの本体と、これに付属する排気ダクトからなり、ドライヤー内部は、上方にエヤホイルノズル、下方にエヤテーブルノズルがあり、塗布部から送られてくる磁性塗料の付着したフイルムは、この上下のノズルの中間約五センチメートルの空間を走行する間に、ノズルから出される熱風を受けて磁性塗料が乾燥し、蒸発した有機溶剤が排気ダクトを通じて回収される構造となつている。ところで、そもそもドライヤーの入口先端部は塗布室に直結しておらず、塗布室とドライヤーの先端には間隙があるという構造であつたため、その間は磁性塗料を塗布されたフイルムが全く密閉されずに作業場に露出したまま走行するのであるが、この露出箇所は丁度巻出部の真上にあたるため、露出したフイルムから有機溶剤蒸気が大量に発生し、巻出部に吹きつけており、極めて強い臭気を放つていたものである。この箇所からの有機溶剤蒸気の発生は、昭和四八年七月囲い型の局所排気装置が設置されるまで、三か月も放置されたままになつていた。更に、ドライヤー本体についても、ドライヤー内の給気と排気のバランスが崩れて加圧状態になつた場合および通常の稼働時でも、数箇所ある手動用開閉口の開閉部分の接触不良からドライヤー内で蒸発した多量の有機溶剤蒸気が漏出し、ドライヤー下の巻出部等に滞留していた。

(3) 四二号コーターにおける有機溶剤蒸気の発散

四二号コーターは、本件コーターとほぼ並行して巻出部に最も近接する形で設置され、本件コーター同様プラスチツクフイルムに有機溶剤を含む磁性塗料を塗布し、乾燥させる装置であるが、そもそも同コーターは、本件コーターよりも旧式で、有機溶剤の蒸気を密閉する設備は極めて不充分であり、塗布、乾燥、巻取等の一連の業務も同一の作業スペースで行なわれていた。特に、同コーターの塗布部からは、本件コーター同様多量の有機溶剤蒸気が絶えず発生していたのであるが、これを密閉する設備は全くなく、直接本件作業場に充満していたのである。昭和四八年八月に、同コーター塗布部に「上方外付式」(天蓋型)の局所排気装置が設けられたが、これをもつても発生する有機溶剤蒸気を充分に回収することができなかつた(同年一〇月の濃度測定でもメチルエチルケトンが三六四PPMであつた。)。

以上のように、褜吉の担当していた巻出部付近は、①本件コーター塗布室、②同ドライヤー、③四二号コーターからそれぞれ発生する有機溶剤の蒸気が絶えず多量に流入し、滞留するため、褜吉は巻出業務に従事中、多量の有機溶剤蒸気を吸引していたのである。

(二) ドライヤー内部払拭作業

本件コーターの作業内容のうち、特に多量の有機溶剤の暴露を受け、吸引する機会の多かつたのはドライヤー内部払拭作業である。この作業は、ドライヤーを開き、ノズルに付着した磁性塗料を有機溶剤(洗い液)を用いて拭き取るというものであり、トラブル時と休憩時および仮眠時の運転停止時に必ず行なわなければならないもので、その回数は他の三〇号、四二号コーターとは比較にならないほど多いのである。このうちトラブルとしては、①フイルムの片伸びによつてフイルムがドライヤー内で振動し、フイルムの塗料がフイルム走行部の上のノズルに付着して固まり、これがフイルム表面に傷をつける場合、②フイルムの接着が不充分なため、その部分が走行中にはずれる場合、③ドライヤー内のフイルムの張力が変わり、その為にフイルムの走行が不安定となり、フイルムの塗料が走行部の上のノズルの部分に付着して固まり、①と同様にフイルム表面に傷をつける場合等がある。これらのトラブルは、本件コーターの試運転期間であつた昭和四八年四月から同年八月にかけて、特に多く発生し、その後本格的な操業を開始した後も、一勤務に平均四、五回はあり、多い時は一〇回を超えることがあつた。

ところで、この払拭作業は、①ドライヤー内の給排気を停止する、②機械の運転を停止する、③ドライヤー開閉装置のボタンを押してドライヤーを開ける、④ウエスに溶剤を浸して塗料を拭き取るという手順に副つて行なわれていた。したがつて、先ずドライヤー内の給排気を停止し、しかる後にコーターを停止するので、ドライヤー内には磁性塗料の塗布されたフイルムが残存し、そこから発生する多量の有機溶剤蒸気が排出されずに滞留しており、ドライヤーを開き払拭作業を行なう者は、このドライヤー内の多量の残存蒸気の暴露、吸引を受けざるを得ないのである。このため、作業者によつては直ちに払拭作業を行なうのを嫌つて、ドライヤーを約一五分間も開いたままにしてドライヤー内の滞留蒸気を発散させてから作業にかかる場合もあつた。しかし、一方でドライヤーのノズルに付着した塗料は、時間の経過とともに落ちにくくなるため、褜吉をはじめとして通常は作業停止後直ちに払拭作業を行なつており、ドライヤー内の滞留蒸気を多量に吸引していたものである。また、払拭作業の方法は、ウエスに磁性塗料の廃液から再生された有機溶剤の洗い液を浸し、ドライヤー内部のノズルに付着した塗料を拭き取るというように行なわれるが、ドライヤーの内部は、稼働時摂氏八〇度から九〇度の高温であるため、ドライヤー開放後も金属性のノズルは熱く、払拭作業中ウエスに浸した有機溶剤の蒸気が大量に発生し(測定例では、メチルエチルケトン六四〇PPM、トルエン463.5PPM、シクロヘキサノン五PPM)、しかも、ドライヤーの奥行は九四センチメートルもあるため、腕を入れただけでは容易にドライヤーの奥の部分を拭くことはできず、ドライヤーの開口部に頭を入れてこの作業を行なわなければならず、ドライヤーの狭い開口部に頭を入れるため、ウエスから蒸発する大量の有機溶剤を吸引することになる。このため、中には余りに臭気が強烈であるため、呼吸を止め顔をそむけて作業する者もあつた。そして、この払拭作業は、一回十数分を要するもので、一勤務にすると平均約四〇ないし五〇分、多い時では一〇〇分にもわたつて有機溶剤を吸引するものである。

以上のように、ドライヤー内部払拭作業は、極めて大量の有機溶剤蒸気を長時間にわたつて吸引する虞れのある危険な業務であつたが、褜吉ら作業者は、防毒マスク、ホースマスク等の備付がなかつたため、これらを装備せずに作業に従事し、多量の有機溶剤の暴露を受け、これを吸引していたものである。

(三) 塗布装置の洗浄作業

本件コーターでは、昼の休憩時間前、「みなす勤務」仮眠前および塗料の切替時に、塗布装置の洗浄が行なわれていた。この作業は、塗布室内にある塗布部の磁性塗料の付着しているカツプロール、バツクロール、ガイドロール、フイルター受皿等をウエスに浸した有機溶剤で洗浄するものであり、通常グループリーダーの担当であつたが、褜吉ら巻出部担当者もリーダーを補助して作業に従事し、その一回の所用時間は通常三〇分前後であるが、長い時は六〇分ないし九〇分という長時間にも及んでいる。この作業では、塗布室内に塗布装置から発生し充満している有機溶剤蒸気を吸引するに加えて、直接有機溶剤に接触し、ウエス等から蒸発する蒸気を吸引する虞れのある業務であるが、褜吉らは、防毒マスク等の保護具を装備せずにこの作業を行なつていたため、多量の有機溶剤蒸気を吸引し、また暴露を受けていたものである。

(四) 塗布装置の調整作業

塗布装置の故障およびコーターのトラブルが発生した場合には、塗布装置のスムーザーやローラーの傾きを調整する作業が塗布室で行なわれる。この作業は、通常グループリーダーが行なうが、褜吉の所属していたグループでは必ずしもリーダーに限られず、手のあいている者が行ない、褜吉もこの作業を担当していたものであり、通常の所用時間は一〇ないし二〇分で、一勤務時に最低二、三回行なわれており、その間塗布室に充満する有機溶剤を吸引していたものである。

(五) 有機溶剤の肝毒性

被告が本件作業場で使用する有機溶剤は、メチルエチルケトン、トルエン、シクロヘキサノン、メチルイソブチルケトンおよびジメチルホルムアミドである。このうちトルエン、シクロヘキサノンおよびメチルイソブチルケトンについては、一般毒性として肝毒性があるとされている(甲第二九号証)のであるから、これら有機溶剤による肝障害の可能性は極めて強いと言える。ところで、被告で使用している磁性塗料中のトルエンは、厳密にはトルエンではなくトルオールである。即ち、今日のタール工業では全く純粋のトルエンなるものは分留されないために、製品としてもトルエンではなく、トルオールとして生産されている。トルオールには、純トルオール、九〇パーセントトルオール、六〇パーセントトルオールの三種があるが、純トルオールの場合をとつても、その成分をみると、トルエンの外0.4ないし1パーセントのベンゼンが混合しているのである。このベンゼンは第一種有機溶剤として極めて有毒な物質であり、その許容濃度は一〇PPMであり、肝臓に対しても毒性を有するものである。被告において使用するトルオールの種類は明らかにされていないが、通常溶剤級のものとしては、九〇パーセントトルオール、六〇パーセントトルオールであり、九〇パーセントトルオール中のベンゼンの比率は一ないし五パーセント六〇パーセントトルオール中では一〇ないし三〇パーセントも混入しているのである。いずれにしても、被告において使用していた磁性塗料中には、肝毒性を有し、人体に極めて有毒な第一種有機溶剤ベンゼンが混入していたことは疑いのない事実である。また、被告においては、前記四種の有機溶剤の外に、ジメチルホルムアミドをも使用している。このジメチルホルムアミドは、有機溶剤の中でも肝毒性が極めて強く、その許容濃度も一〇PPMとされている有害な物質である(甲第二九号証)。

被告の使用有機溶剤中には、かかる肝障害の極めて強いものをも含んでいたのであり、その暴露、吸引による肝障害発生の蓋然性も極めて高いものといえるのである。現に、被告の有機溶剤業務従事者のうち、七名が昭和四九年度の特殊健康診断で有所見となつており、このうち肝機能の有所見が四名出ているのである。同一事業場の同種作業者間に、一年に四名の肝障害者が発生するということは、かなりの発生頻度であり、被告において使用されている有機溶剤によつて肝障害の引き起こされる蓋然性が極めて高いことを実証するものであると言える。

4  有機溶剤と死亡

褜吉は、本件作業場において連日有機溶剤蒸気を大量に吸引し、かつこれに暴露されたため肝障害を患い、この肝障害を原因として死亡するに至つたものである。

(一) 肝障害の原因

(1) 事実上の根拠

有機溶剤が種々の強い毒性を有し、これによつて死亡する者の多いことは予防規則の制定過程をみるまでもなく明らかであり、一方肝臓が人体に侵入する毒物の影響を最も強く受ける器官であることもまた明らかである。ところで、褜吉が本件作業場において長期にわたり多量の有機溶剤蒸気に暴露され、これを吸引していたことは前述(3・(一)ないし(四))したとおりであり、被告が磁性塗料としてトルエン、シクロヘキサノン、メチルイソブチルケトン等の肝毒性を有する有機溶剤ばかりか、ベンゼンやジメチルホルムアミドという極めて肝毒性の強い有機溶剤をも使用していたことは前述(3・(五))したとおりである。してみれば、褜吉が被告において使用していた有機溶剤蒸気の暴露、吸引によつて肝障害を受けたことは明らかといわなければならない。

(2) 病理学上の根拠

褜吉を剖検診断した東北大学医療技術短期大学部教授丹羽隆は、褜吉の肝障害を有機溶剤によるものと認定した根拠として、①肝細胞の壊死、脱落が肝小葉中心部に限られていること、②ウイルス性肝炎にみられるような炎症所見が全くないこと、③褜吉は本件作業場で有機溶剤に暴露され、これを吸引していたこと(臨床医からの報告)、④褜吉は有機溶剤以外には肝障害の原因となりうる薬剤その他の中毒性物質を服用し、吸引し若しくはこれに暴露した形跡がないこと(臨床医に対する問い合わせの結果)の四点をあげている。そして、ウイルスによる肝障害の場合にみられる所見、即ち、肝細胞の脱落が肝小葉中心部だけでなく、その周辺部やグリソン鞘の部分にも起こること(グリソンと肝細胞間の実質の破壊がみられること)、残存肝細胞に配列の乱れがあること、類洞の内皮細胞、特にクツバー細胞が膨れていること、グリソンの細胞浸潤がみられること、肝実質にも細胞浸潤がみられること、グリソン周囲で肝管の増生がみられることのすべてを否定しているのである。この丹羽教授の結論は、東北大学病理学教室の剖検会および総検査における検討を経た上でなされたものであり、その内容も今日における中毒性肝障害とウイルス性肝障害を区別する病理学上の常識にも合致するものである。したがつて、褜吉の右にあげた肝細胞の組織変化は、有機溶剤中毒としての特徴が顕著であり、かつ右の③および④の点をも合わせて考えるならば、右肝障害は、病理組織学上も有機溶剤による中毒性のものと判断されるものである。

(3) 臨床上の根拠

肝障害については、病状および肝機能検査だけでその原因をウイルスによるものか、化学物質によるものかを判定することは極めて困難だとされているが、この場合、最も重視すべきは患者の既往症、家族関係、職場環境等に関する問診である。褜吉の入院中治療を担当した塩釜掖済会病院医師中里武は、褜吉の入院中、褜吉および被告テープ一課の阿部係長代理から職場環境、作業内容、使用有機溶剤の種類等を聴取したうえで診断を下しており、有機溶剤による肝障害の診断としては正しい方法に立脚したものである。中里医師は、有機溶剤による肝障害と診断した第一の理由として職場の状況を指摘し、これに加え、通常の肝障害とは思われないとする根拠をあげているが、その中で、血清蛋白分画の異常(アルブミンの減少とガンマグロブリンの上昇)、オーストラリア抗原が陰性であつたこと、異型リンパ球のないこと、副腎皮質ホルモンの効力の遅いことなどは、褜吉の肝障害の原因を有機溶剤と疑うに足る十分な根拠となりうるものである。したがつて、問診の結果とこれに添う臨床経過をみれば、褜吉の肝障害の原因は、臨床上においても有機溶剤によるものと診断されるのである。

(4) 以上の事実によつてみれば、事実上においても、また病理学上においても、さらに臨床上においても、いずれも褜吉の肝障害が有機溶剤によるものであることは疑いを入れないところといわなければならない。

(二) 肝障害と死亡

褜吉の死亡の直接原因は、全身性クリプトコツカス感染症によるものであることが明らかであり、このクリプトコツカス感染症は、褜吉が重篤な肝障害によつて全身が衰弱したために発生したものであることも明らかである。ところで、クリプトコツカス感染症は、真菌(かび)によつてもたらされる疾患であるが、カンデイーダー、アスペルギールスと並んで続発性真菌症(通常の健康人には起こりにくく、何らかの基礎疾患があつて、体の衰弱により抵抗力を失なつた場合に感染する。)として有名な疾患である。そして、肝障害は、クリプトコツカス感染症の基礎疾患としては白血病に続く第二位の地位を占めているのである。したがつて、褜吉が重篤な肝障害を患つていたことは明らかであるから、このクリプトコツカスによる感染を第二次的な続発性の感染と判断することは容易になしうるところである。してみれば、褜吉の死は、直接には全身性クリプトコツカス感染症によるものであるとしても、これが有機溶剤による肝障害に起因している以上、有機溶剤の暴露、吸引と死の因果関係は明らかであるといわなければならない。

5  被告の責任

(一) 労働契約上の債務不履行責任

(1) 被告の安全保護義務

使用者は、労働契約上、その使用にかかる労働者の生命、身体の安全を保護し、健康を保持させるべく、労働条件、安全衛生および健康管理等に十分留意すべき義務を負い、とりわけ、使用者が自己の指揮監督下にいる労働者を危険又は有害な業務に従事させる場合には、当該労働者の生命、身体若しくは健康の安全を保護するために必要な具体的な安全教育を行ない、かつ労働者の危険、有害物との接触を遮断するための安全設備、安全装置、安全保護具などを設置若しくは支給し、さらに必要な健康診断を実施するなど、労働者の生命と健康を保護するための万全の措置を講ずべき高度の注意義務を負つているものである。

(2) 被告の安全保護義務不履行の内容

(イ) 作業場の環境を安全に保つ義務違反

褜吉が塗布作業に従事していた本件作業場内の各コーターにおいては、大量の有機溶剤を主成分とする磁性塗料が使用されており、そのうち本件コーターにおける磁性塗料の使用量は、昭和四九年二月の時点において月間四万一五八〇キログラム(毎時82.5キログラム)に達しており、右塗料の組成中、有機溶剤は重量比において約六五パーセントであるから、有機溶剤の使用量は毎時53.6キログラムという大量のものである。したがつて、被告は、まず第一に、本件コーターのドライヤー等から有機溶剤の有毒ガスが本件作業場に漏出しないよう、右ガスの発生源を密閉する設備および局所排気装置の設置に万全の措置を講ずる義務がある(労働安全衛生法=以下「法」と略称する=六四条、予防規則五条等)。けだし、有機溶剤による中毒を予防するためには、有機溶剤の蒸気を発生させないことが第一であるが、業務の性質上、その蒸気の発生が避けられないとすれば、作業場内の空気が有機溶剤の蒸気によつて汚染されることを防止し、その蒸気の作業場内への発散を抑制しなければならない。また、このように有機溶剤の蒸気の発生源を密閉してもなお、その蒸気が本件作業場内に漏出することがありうるのであるから、被告は、さらに右作業場内に十分な性能を有する全体換気装置を設けるとともに、これらの密閉設備および局所排気装置等の稼働状況および性能等を絶えず巡視・点検し、かつ、少なくとも一か月に一回、定期に右作業場内の有機溶剤の濃度を測定するなどして、本件作業場内の空気環境その他の作業環境を安全な状態に保つ義務を負つているのである(法六五条、労働安全衛生法施行令=以下「施行令」と略称する=二一条一〇号、予防規則六条、七条、一四条ないし二三条、二八条等)。ところで、被告は、当時本件コーターおよび本件作業場に局所排気装置と全体換気装置とを設置していたが、被告の設置したこれらの装置は、前述した大量の有機溶剤の使用量に比し、極めて不十分なものであり、性能の劣るものであつた。被告は、褜吉の死後、最近になつてようやく、本件コーターに「溶剤回収装置」を設置し、かつ、局所排気装置および全体換気装置の改善を行なつたのである。さらに、被告は、本件作業場における巡視・点検および有機溶剤の濃度測定の義務をも怠つていたのである。すなわち、被告は、有機溶剤を用いた塗布、払拭の業務が行なわれている本件作業場を毎日一回は巡視し、有機溶剤による中毒の発生のおそれがあると認めたときは、直ちに必要な措置を講ずべき義務を負つていたにもかかわらず(予防規則一九条等)、これを怠り、一週に一回か二回程度の巡視しか行なわず、従業員の中に有機溶剤の蒸気を吸引して、気持が悪くなり、あるいは目まいや吐気を催し、さらには肝障害を起こして入院した者があつたにもかかわらず、何ら必要な措置を講じなかつたし、また、当時本件作業場における有機溶剤の気中濃度の測定を全くしなかつたものであり、行政法規上、本件作業場においては、三月以内ごとに一回、定期に書期溶剤の濃度測定が義務づけられているのに(予防規則二八条二項)、それさえも遵守していなかつたものである。

(ロ) 褜吉を有害かつ危険な業務に従事させた義務違反

有機溶剤は、毒性が強く人体に有害な物質であり、人が多量に吸引・暴露するときは有機溶剤中毒にかかるものであるから、被告は、褜吉ら従業員をして、大量の有機溶剤の蒸気を直接吸引し、あるいはそれに暴露されるおそれのある業務に従事させてはならない。若し、有機溶剤又はその含有物を用いて行なう塗布や払拭作業等の業務の性質上有機溶剤に接触することが避けられない場合には、完全な性能を有するホースマスク又は有機ガス用防毒マスクを装備して褜吉らにそれを使用させる義務を負い、かつ、その作業時間を極力制限、短縮するとともに、完全な作業方法について教育、指導する義務を負つているものである(予防規則三三条、法五九条、六〇条、施行令一九条、労働安全衛生規則=以下「衛生規則」と略称する=三五条、三六条、四〇条等)。しかるに、被告は、褜吉をして防毒マスク等の保護具を装備させず、前述(3・(二)ないし(四))したように、大量の有機溶剤の蒸気に暴露する作業に従事させていたものである。

(ハ) 褜吉およびその上司らに安全教育等をすべき義務違反

被告は、褜吉ら従業員を雇い入れ、又はその従業員の作業内容を変更したときは、機械、原材料等の危険性又は有害性およびこれらの安全な取扱い方法、作業手順、当該業務に関して発生するおそれのある疾病の原因および予防に関する事項等、その業務に関する安全又は衛生のため必要な事項について教育を行なう義務を負い(法五九条、労安規則三五条等)、さらに、職長その他現場の労働者を直接指導又は監督する者に対し、右事項の外、別に作業手順の定め方、作業方法の改善、労働者の適正な配置の方法、作業設備の安全化および環境の改善の方法、環境条件の保持、その他安全又は衛生のための点検の方法等、労働災害を防止するための必要な事項について、教育を行なう義務を負うものである(法六〇条、労安規則四〇条等)。しかるに、被告は、褜吉らをして、生命又は健康に有害な前記作業に従事させておりながら、本件コーターおよび右有機溶剤の危険性又は有害性、その取扱方法等、業務の安全および衛生に関する教育をほとんど実施しなかつたものであり、また、褜吉の属する作業グループの班長(リーダー)や、その直属の上司で、褜吉らを直接指導又は監督する立場にあつたテープ部門製造第一課課長らに対しても、本件コーターにおける有機溶剤業務に関して、その中必毒等の疾病又は労働災害を防止するため要な安全又は衛生上の十分な教育を実施しなかつたものである。

(ニ) 褜吉に対し健康診断を行なうべき義務違反

被告は、一般に使用者として従業員に対し、定期に健康診断を実施し、その取扱業務に起因する疾病又は労働災害の発生を未然に防止すべき義務があるが(法六六条)、褜吉に対しては、生命、健康に有害な有機溶剤を大量に暴露、吸引する業務に従事させていたのであるから、雇入れの際およびその後少なくとも一か月に一回は、神経系、肝臓、腎臓等の障害の有無の検査等、有機溶剤による中毒を予防するために必要な内容の特別の健康診断を実施し、もつて褜吉の健康障害を防止するため万全の措置を講ずべき義務がある(予防規則二九条以下)。しかるに、被告は、健康診断を含む従業員の安全衛生事務担当者としてはただ一人だけを配置していたにすぎず、一人で他の多くの安全衛生業務をやりながら、従業員のために必要な健康診断の企画、立案および実施を行なうことは到底不可能な体制であつた。現に、褜吉に対しては、入社時と昭和四八年六月一九日に一般の定期健康診断を実施してはいるものの、有機溶剤業務従事者のために必要な特別の健康診断は同年五月八日にただ一回実施しただけである。予防規則では、有機溶剤業務に従事させる労働者に対しては、雇入れの際、当該業務への配置替えの際およびその後六月以内ごとに一回、定期にいわゆる特殊健康診断を行なうことを事業者に義務づけているが(同規則)、被告は、この労働行政上の義務さえも遵守せず、雇入れのときも、またその後六月以内ごとに一回も特殊健康診断を実施しなかつたのである。しかも、同年五月八日に実施したという特殊健康診断も、全血比重、尿検査(ウロビリノーゲンおよび蛋白)および歯牙検査を行なつたのみであつて、常時大量の有機溶剤に暴露する業務に従事していた褜吉に対する検査としては極めて不十分である。すなわち、第一次的なスクリーニング・テストとしても、右検査項目の外に、血色素量、ヘマトクリツト、赤血球数、白血球数、血清GPT、GOT、黄疸指数、アルカリフオスフアターゼ、膠質反能(TTT、ZTT)、皮膚、粘膜および爪の異常、膝蓋腱反射および振動覚等の諸検査をもしなければ、有機溶剤中毒診断のための検査をしたとはいえないのである(予防規則二九条は、いわゆる特殊健康診断のための検査項目を掲げているが、これは現時点ではもはやスクリーニング・テストとしても不十分であることははやくに指摘されているところである。)。被告は、右予防規則に定められた検査項目についてさえも完全には診断を実施していないのである。被告が、褜吉にとつて必要なこのような検査内容の健康診断を一か月に一回といわず三か月に一回でも実施していたならば、褜吉の有機溶剤中毒による健康の異常は、早期に発見され、必要な治療を受けることができたはずであるから、死亡せずに済んだのである。

(3) まとめ

以上述べたように、被告は、褜吉に対し有機溶剤業務に関する安全、衛生のための必要な教育を実施せず、同人をして漫然と有機溶剤蒸気の充満する劣悪な作業環境のもとで危険な業務に従事させ、その間予防規則に定められた健康診断さえも実施せず、有機溶剤中毒による重篤な肝障害を呈して入院するまで放置し、もつて褜吉を死亡させるに至つたものであるから、労働契約上の債務不履行責任を免れないものである。

(二) 不法行為責任

被告において、訴外北村尚三、同岩下克之、同安藤晋一、同降矢光正および同中津留聡は、それぞれ、取締役、テープ部門次長、テープ部門製造第一課課長、総務課長および安全衛生担当者の地位にあつたものであるところ、いずれも褜吉をして快適かつ安全な作業環境において安全な業務に従事させるべく、右北村、岩下および安藤は、前述((イ)ないし(ニ))した義務を、また右降矢および中津留は前述((ハ)・(ニ))した義務をそれぞれ負担しておりながら、いずれも殊更これを怠り、褜吉を有害かつ危険な作業環境において、有害な有機溶剤取扱業務に従事させ、もつて、有機溶剤中毒による肝障害に罹患させ死亡させるに至つた。そして、褜吉の右健康障害および死亡は、右北村らが被告の業務を執行中に発生させたものである。よつて、被告は民法七一五条による不法行為責任を免れないものである。

6  損害

(一) 逸失利益

金四四二五万七二五六円

(1) 褜吉は、死亡当時被告に勤務し、一か月約一〇万円の給与の外、期末手当等を得ていたが、未だ若干三五歳であつたから、将来の転職や昇給については相当程度の蓋然性が認められるものである。そこで、同人の将来の喪失利益については、同人が現実に得ていた収入を基準とするよりも、全国の男子労働者の年令別月額平均賃金を基準として算定する方が合理的である。よつて、賃金センサス昭和四九年、新高卒男子労働者、企業規模計、年令別「きまつて支給する現金給与額」および「年間賞与その他特別給与額」を基準として、同人が死亡時以降取得したであろう賃金総額を算出し、さらにホフマン式計算方式により年五分の割合による中間利息を控除すれば、逸失利益の現価は別表(一)「逸失利益計算表」記載のとおり四四二五万七二五六円となる。

(2) 褜吉の生活費分としては、夫婦、子供二人という家族構成に照らし一〇〇〇万円をもつて相当とし、これを、右逸失利益から控除し、その残額を原告ら三名の法定相続分にしたがつて各自に配分すれば、原告らの相続した金額は各自一一四一万九〇八五円となる。

(二) 慰藉料  金二一〇〇万円

褜吉は、有機溶剤中毒による肝障害のため、塩釜掖済会病院に入院した後、死亡するまでの間、その疾病による苦痛のため七顛八倒した。原告らは、妻としてあるいは子として、夫であり父である褜吉のそのような苦しみを見るに忍びず、大きな精神的苦痛を受けた。また褜吉の前述した有機溶剤業務の実態に思いをいたすとき、原告らの苦しみは一層深まるのである。さらに、原告サカエは若くして夫に先立たれ、また原告由美子、同健一は幼なくして父と死別しそれぞれ、これからの長い生涯を寡婦として二人の子供を養育しながら、あるいは父のない子として生きていかなければならず、その精神的苦痛がいかに甚大なものであるか、言語に絶するものがあるといわなければならない。これら諸般の事情を考慮すれば、原告らの右精神的苦痛に対する慰藉料としては、各自七〇〇万円をもつて相当とする。

(三) 弁護士費用 金六〇〇万円

以上により、原告らは被告に対し各自一八四一万九〇八五円の賠償請求権を有するところ、被告は任意の弁済に応じないので、原告らは弁護士たる本件訴訟代理人らにその取立を委任し、弁護士会所定の報酬範囲内で、各々二〇〇万円宛支払うことを約束した。

7  結論

よつて、原告らは各自被告に対し、前述した労働契約上の債務不履行責任または民法七一五条に基づく不法行為責任として二〇四一万九〇八五円およびこれに対する褜吉死亡の日である昭和四九年四月二四日から完済まで年五分の割合による遅延捐害金の支払を求める。

二、請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は争わない。

2  同2(一)の事実中、褜吉が宮城県工業技術公共職業訓練所を修了(宮城県農業高等学校を中退)したこと、昭和三九年原告サカエと婚姻し、その後二児(原告由美子、同健一)をもうけたこと、昭和四八年四月被告の有期雇用者採用試験を受け、合格したこと等は争わないが、被告の行なつた右採用試験の応募者が六〇名であつたこと、およびその合格者が三名であつたことは否認する。その余の事実はわからない。

3  同2(二)の事実中、「大量の」を否認し、その余は争わない。

4  同2(三)の事実中、褜吉に従来飲酒の慣行があつたこと、褜吉が塩釜掖済会病院に入院し、昭和四九年四月二四日午後五時四五分死亡したこと等は争わないが、その余の事実はわからない。

5  同3の事実は否認する。

6  同4の事実は否認する。

7  同5(一)の事実中、労働安全衛生法、同法施行令、労働安全衛生規則、有機溶剤中毒予防規則等の条項のうち原告の主張する各条項が事業者一般に対し、事業場の安全衛生に必要な義務を定めていることは争わないが、その余の事実は否認する。

8  同5(二)の事実中、褜吉が被告に勤務していた頃、訴外北村尚三、同岩下克之、同安藤晋一、同降矢光正、同中津留聡が、それぞれ原告主張のような役職に就いていたことは争わないが、その余の事実は否認する。

9  同6の事実中、褜吉が死亡当時三五歳であつたこと、原告らが原告訴訟代理人らに訴訟委任したこと等は争わないが、原告らと原告訴訟代理人らとの契約関係はわからない。その余の事実は否認する。

10  同7は争う。

三、被告の主張

1  被告と褜吉との間の労働契約

(一) 被告は、昭和四八年四月一三日、有期雇用者の採用試験を行なつたところ、男子三〇名、女子七名の応募者があり、そのうち褜吉を含む男子八名と女子五名とが合格し、同月二〇日、被告は褜吉と、同人をアシスタント要員として同年九月一九日まで雇用する旨の契約を締結した。

(二) ところで、被告における昭和四九年四月二〇日現在の男子有期雇用者は、「アシスタント要員」、「アシスタント」および「レギユラー」と呼ばれているものよりなり、「アシスタント要員」は、年令三五歳前後から五〇歳前後までの男子を対象に採用し、契約期間は五か月となつていたものであるが、被告は右契約期間が満了する約一か月前に、所属課長に対し、当該有期雇用者が従事している作業が継続して行なわれる作業であるかどうか、また、継続して行なわれる作業の場合、現在従事している当該有期雇用者を継続してその作業に従事させる意志があるか等を書面にて確認したうえ、その内容を審査し、当該有期雇用者との新たな雇用契約の締結を決定していたもので、契約の締結にあたつては、被告の提示する雇用条件で勤務する意志があること、並びに提示された期間勤務し労務の提供が出来る状態であることを有期雇用者個々人に対し確認するという手続を行なつた後、「アシスタント」として契約期間を六か月とする雇用契約を締結することになつていたものである。なお、「アシスタント」契約を二回以上締結した者は「レギユラー」の受験資格を与えられ、本人が希望して受験のうえ合格すれば「レギユラー」として契約期間を一年とする雇用契約を締結することになつており、また「レギユラー」として一年間勤務した者は中高年正規社員の受験資格を与えられることになつていたものである。被告が右のような雇用形態をとつていたのは、経験の度合、労働の質に応じた雇用契約を締結しようという趣旨で行なつていたものであり、そのために「アシスタント要員」「アシスタント」、「レギユラー」では、それぞれ契約賃金額が異なつていたものである。したがつて、被告が褜吉と締結した、昭和四八年四月二〇日より同年九月一九日までの「アシスタント要員」としての労働契約における契約賃金額は、作業給(時間給)三三一円、皆勤手当(週)一二四二円であり、また、同年九月二〇日より昭和四九年三月一九日までの「アシスタント」としての労働契約におけるそれは、固定給(月額)一万円、作業給(時間給)二七五円、皆勤手当(週)一二五八円であり、さらに、同年三月二〇日より同年四月一九日までの「アシスタント」としての労働契約におけるそれは、固定給(月額)一万四〇〇〇円、作業給(時間給)三一二円、皆勤手当(週)一〇〇〇円であつたものである。

(三) 被告と褜吉との雇用契約のうち、昭和四九年三月二〇日から同年四月一九日までの「アシスタント」としての雇用契約については、褜吉が雇用契約満了時点で病気入院中であり、また、同年三月一九日の雇用契約期間が満了する前後に被告に提出された、同月一三日付の塩釜掖済会病院中里医師作成にかかる診断書には、「向後一ケ月の入院加療を要す。」とされており、これらによれば、褜吉の就労は不可能であつたから、本来ならば新たな雇用契約を締結出来る状態ではなかつたが、雇用契約を一か月更新することによつて一年間勤務したこととなり、健康保険の被保険者資格を喪失しても、療養給付、傷病手当金等継続療養のための給付を受けられることとなるという理由により、特別に雇用契約を一か月締結したものである。しかるに、褜吉は、右契約締結後一か月間の雇用期間が満了した時点においても就労不可能な状態であつたため、期間満了とともに退社することとなつたが、被告は期間満了当日の同年四月一九日、原告サカエに「本日付で契約期間満了により退社となるが、病気回復の際は優先的に再雇用する。」旨を伝え、健康保険の傷病手当金の立替仮払金五万円を渡したものである。

(四) なお、被告が一定の期間と職種を定めて雇用していた有期雇用者は、主としてテープおよびフエライトの製造現場において、技術的知識あるいは熟練を必要としない単純反復的作業に従事し、正規従事員の指導のもとに就労していたものであり、褜吉の場合も例外ではなく、本件コーター作業のうち最も技術的知識や熟練を必要としない巻出部を担当していたものである。このように、被告は、有期雇用者の作業配置について、原則として作業の難易の程度のみによつて決めていたものであるから、塗布機に関する作業の大部分を有期雇用者に担当させていたり、有期雇用者を特に作業環境の悪い職場に従事させていたりしたことはなかつたものである。ちなみに、褜吉が本件コーターの作業に従事していた期間、同コーターの作業者として勤務していた者は一三名であるが、このうち八名が正規従業員であり五名が有期雇用者であつたものである。

2  被告の職場環境

(一) 被告の安全衛生管理に関する基本姿勢

(1) ソニー株式会社は、昭和二四年に我国で初めて磁気テープの生産を東京で開始し、その後、昭和三二年より現在の被告工場で量産を始めたものであるが、被告は、その技術と経験を継承し、現在まで約二〇年の実績を積み重ねているものであり、職場環境や作業の安全衛生についても、ソニー株式会社仙台工場以来の経験と実績にもとづき、可及的な努力を尽くしてきたものである。

(2) 被告のように、磁気テープの製造等種々の特殊な設備、機械、装置等を使用する、いわゆる装置産業的な業種においては、安全衛生に関しても、先づそれらの設計段階において十分に配慮のなされることが必要であり、被告としても、その点については特段の配慮をなしてきたものである。殊に、被告は、昭和二四年に磁気テープを開発した当初より有機溶剤を使用してきたもので、その経験にもとづき、有機溶剤発生源の密閉遮閉を始めとして、局所排気装置、全体換気装置設置等、予防規則が定めている有機溶剤取扱いに関する安全衛生諸施策をすでに同規則制定(昭和三五年)以前から実施するとともに、同規則制定後は、同規則が定めている以上の環境、装置を保持すべく努力してきたものである。したがつて、本件コーターおよびその周辺装置も、すでにその設置前、有機溶剤中毒の予防、その他安全衛生に必要な諸措置を十分に考慮に入れて実施されていたものであり、褜吉が勤務していた当時においても、本件コーターの装置や同人の作業環境等に関して、安全衛生上欠けるところはなかつたものである。

(3) しかし、いかに機械、設備、装置等が優れており、安全衛生上の配慮に欠けるところがなくとも、その保守、点検、整備に欠けるところがあれば、その機能を十分に発揮することが出来ないことはいうまでもなく、職場環境や作業の安全衛生については、いかに良好であつても十分過ぎるということはあり得ないから、それらのより一層の向上を求めるため、絶えず改善、改良に心がけるべきことも当然である。したがつて、機械、設備、装置等の十分な保守、点検、整備並びに改善、改良は、職場環境や作業の安全衛生を維持向上させるためにも、また一面では製品の品質を保持、向上させるためにも必要不可欠のものということができる、そのため、被告では常にそれらの点検、整備、改善に努めてきたものであり、褜吉の職場においても例外でなく機械設備の保守、点検、整備を行なうため、専任の技術担当者を配し、常にその任に当らせるとともに、必要に応じて機械設備の改善等をもなさしめてきたが、このことが従業員の危険防止ないし健康障害の防止という目的に合致するのみならず、良好な作業環境の維持という目的からも有効かつ適切なものであつたことは疑いのないところである。

(4) もつとも、安全や衛生の維持、向上に関しては、機械、装置等のみによつて達成することが出来ず、従業員個々人の自覚と努力を必要とすることも否定し得ないところである。そのため、被告は、安全、衛生に関する教育、訓練を行なうとともに職場における安全、衛生活動を重視し、それを通じて各職場ごとに、職場環境を整備し、かつ、作業の安全衛生を維持、向上させるべく努めているものである。被告はこの目的を達成するため、被告全体の労働安全衛生管理体制を整備するとともに、職場を幾つかのブロツクに分け、ブロツクごとにブロツク安全衛生委員会を設置し、そこで企画、立案したところに基づき、職場の実態に即した安全衛生活動を推進しているものであるが、テープ部門の場合も、被告全体の労働安全衛生管理体制機構のもとに、職場を第一ないし第五のブロツク(原則として各課毎のブロツク)に区分し、各ブロツク毎に職場の作業態様に沿つた具体的な活動を実施しており、褜吉の勤務していた当時も例外ではなかつたものである。すなわち、褜吉の職場はテープ第一ブロツクに属し、その安全衛生活動は、同ブロツク安全衛生委員会で検討し、決定したところに基づき行なわれていたが、昭和四八年度(四月より翌年三月まで)においても、同委員会では委員長(当時右職場の塗布班長)を中心として、各工程から任命された委員達で同年度の年間計画を作成し、その実行に当るとともに、毎月定期的に製造第一課長(同ブロツクの安全と衛生に関する責任者)並びに同課長補佐(同ブロツクに関する技術的、設備的な事項の担当者)の出席統括の下に月例の委員会を開催し、具体的施策を審議、検討したり、職場の意見を聴取するなどし、それらを実際の安全および衛生活動の内容に取り入れ実施していたものである。

(二) 本件コーターの作業環境

(1) 本件コーターの設備装置

本件作業場には、褜吉の在勤中、本件コーターと四二号コーターとが設置され、その当時より給気ダクトと排気ダクトとをともなつた中央管理方式による空調設備(暖房および冷房)が設けられていたが、本件作業場は特にフレツシユエア(新鮮な空気)の給気力が他の作業場に比し、強化されていたものであり、そのために作業場は常に塗布、乾燥部より高圧になり、より十分な全体換気がなされていたものである。このことは、別表(二)「本件コーター附近の有機溶剤気中濃度測定値」記載の値がいずれも許容濃度勧告値、すなわち、有機溶剤を取扱う作業場における有機溶剤の気中濃度について、社団法人日本産業衛生学会が許容基準を定めてその遵守を勧告している基準値である、メチルエチルケトン四〇〇PPM以下、トルエン一〇〇PPM以下、シクロヘキサノン二五PPM以下、メチルイソブチルケトン一〇〇PPM以下に比し、はるかに低いことでも明らかなところである。また、本件作業場には、当時より右の空気設備とは別個に全体換気・排気装置が設けられていたばかりでなく、有期溶剤の発散源に近い周辺部(例えば塗布室における塗布機周辺)に、局所排気装置が設置されており、空調用の給気排気装置と右の全体換気用ないし局所排気用の各排気装置とが一体となつて作動していたものである。なお、本件コーターの各部分の装置や付属設備の概要は、褜吉が勤務していた当時より(イ)―巻出しフイルムロールをベースストツカーより取り出して巻出機に装置し、巻出し中のロールから、新しいロールに自動的に連続して繋ぐ装置、(ロ)塗布―巻出機から送られてきたフイルムに、磁性塗料を均一に塗布するための塗布装置(この装置は新聞印刷の高速度輪転機と似た原理のものであるが、その作業場は塗布室として他の部分の作業場から遮閉されて独立しており、そのため同室専用の給気および排気ダクトが設置され、それによつて全体換気、局所排気が行なわれているものである。)、(ハ)乾燥―フイルムの上に数ミクロンの厚さに塗布された磁性塗料を、長尺短形筒形のドライヤーの中を走行する間に塗料を乾燥させるための装置(このドライヤーには専用の高性能な局所給排気装置―給気管一〇個、排気管六個―が直結され、作業場とは別個に強力な給排気を行なつているが、このドライヤーはフイルムの挿出入に必要な僅かな間隙―スリツト―を除いて完全に密閉されているばかりでなく、ドライヤー内の給気と排気のバランスが常に給気風量よりも排気風量が大きくなるよう設計され、調整されているので、ドライヤー内作業場に対して常に低圧となり、スリツはト部から作業場内の空気がドライヤー内に引き込まれる状態にあるため、乾燥時に蒸発した有機溶剤は、作業場内に漏出することなく、右のドライヤー専用の局所排気ダクトを通じて作業場外に強制的に排出されているものである。なお、ドライヤー内への給気は、無塵乾燥熱風となつており、その温度はドライヤー内の場所によつて多少異なり、一番高い所で摂氏約九〇度、低い所では同約七〇度程度であるが、それはあくまで作動中のことにすぎず、ドライヤーの運転が停止されると同時に右の熱風の供給が停止されるため、急激に内部の温度が低下するものである。)、(ニ)巻取り―乾燥されたフイルムをロールに巻き取り、新しい芯ロールに自動的に連続的に巻き取る装置、とからなつていたものである。右のような本件コーター本体の設備装置に関する電気的系統は、その回路のすべてが論理的に(インターロツク回路―フールプルーフ)安全性を前提として組まれているものである。なお、本件コーターのドライヤーには点検孔(窓)がドライヤーの上面および側面に設置されていたが、昭和四九年五月頃右点検孔のうち、側面に設置されているものの蓋の周辺にセロフアンテープが貼布されていたのは、右の点検孔の蓋をドライヤーに固定している四個の把手(ハンドル)の一個が当時壊れていたため、念のため目張りをしていたもので、ドライヤー内の空気圧が作業場の気圧より低く保たれていたため、その内部の空気が作業場内に漏出するということはあり得ず、右の把手の一個が壊われていても、他の三個が強力に働いていたため、蓋とドライヤーとの間に間隙が生ずることはなく、しかもパツキングも正常であつたので何等支障はなかつたが、さらに念のためセロフアンテープを貼つていたにすぎないものである。

(2) 本件コーター等の設備改善

被告は、本件作業場をより快適な職場環境とするため、本件コーターを設置した後においても、保守点検者が気付いたり委員会で指摘されたりした頃目等を検討し、常に設備、装置等の改善に取り組んでいたもので、昭和四八年四月以降現在までの間に、本件コーターおよびその付属設備を次のように変更した。すなわち、同年七月に塗布部とドライヤーの接続部のフードを天蓋型より囲い型に変更し、同年八月に排気装置の排気能力を増強し、昭和四九年七月塗布部に天蓋型排気装置を増設し、同年一一月塗布部の囲いを重層化したものである。しかし、右の改善によつて職場環境が幾分なりとも改善され、向上したことは否定し得ないところであるが、それにもかかわらず、その前後で安全衛生上特に影響が生ずるほどの差異はなかつたものである。なお、被告は、溶剤回収装置を導入することを決定して技術的検討を開始し、本件コーターで使用していた磁性塗料の組成を一部変更したが、右装置は、石油エネルギーの節減や、県の公害防止の行政的見地から設置したものであり、右装置の導入は屋内作業場の環境には関係がなかつたものである。

(3) 本件コーターにおける磁性塗料の組成変更

被告は、昭和四八年一二月より別表(三)記載のように磁性塗料の組成を若干変更したが、これは前記溶剤回収装置を設置するため、技術的に回収不可能な溶剤の使用をやめ、他の有機溶剤に代替させたというにすぎないものであり、作業場の環境に特段変化をもたらすものではなかつた。しかも、右塗料組成の変更は、約三か月の期間、種々の実験を重ねたうえ、ようやくにして技術的な解決をみて変更可能となつたものである。なお、磁性塗料を開発するには、その組成をどのようにするか、すなわち、原材料に何を使用するかについては、種々の項目を検討し開発を進行させていかねばならないが、その際、被告が原材料の安全性、有害性についても重要な項目として検討を加えていることは勿論のことである。本件コーターで使用している有機溶剤についても、塗料開発の時点で、被告の長年にわたるテープ生産の経験や専門的知識に基づき、それを使用して製造を行なうことの安全性が確認された後、はじめて製造の段階に移行したものである。

(4) ところで、原告は、本件作業場は悪臭に満ちていた旨主張するが、有機溶剤の臭いに対する人間の臭覚感度は極めて主観的であり、溶剤の種類によつては臭覚を刺激するところが大であるため、僅かのPPMでも強烈に感じられるものもある反面、同一臭をかぎ続けることにより臭覚が麻痺し鈍感になることは、一般に日常経験されているところである。したがつて、有機溶剤気中濃度を論ずる場合、個別的かつ主観的な臭覚にたよることなく、濃度測定器によつて客観的かつ科学的に把握された測定を前提とすべきことは当然である。しかるに、本件作業場の環境測定結果は、本件コーター等の設備改善後、その改善前に比べて僅かに測定値が下つてはいるものの、いずれの場合においても絶対値として極めて低い値となつているのであり、このことは、本件作業場が本件コーター設置当初より極めて良好な作業環境であつたことを証明しているものである。したがつて、原告の主張は失当である。

(三) 本件コーターの作業状況

(1) 交替勤務の状況

本件コーターの作業員は、昼間勤務(午前八時三〇分より午後五時まで)につく場合と、夜間勤務(午後四時三〇分より翌朝九時まで)につく場合とがあるが、前者の場合には、午前一一時三〇分より午後〇時二〇分(昼食)までと午後三時より同三時一〇分まで、後者の場合には、午後五時三〇分より同六時一〇分(夕食)までと翌朝二時より同四時(仮眠)まで、それぞれ休憩を取ることとなつているものである。なお、被告では右の仮眠のため、本件作業場近くに約一六畳敷の仮眠室および同程度の広さの仮眠ベツド室を設け、寝具を備え付けているものであり、褜吉はベツド室を使用していたものである。また被告構内には、右休憩時間中に食事をとるため食堂が設けられ給食をしているものである。

(2) ドライヤーの開閉状況

本件コーターのドライヤー部の開閉に当つては、塗布を停止しなければ、ドライヤーの開閉スイツチは働かない回路になつているところ、仮に塗布がされている状態―即ちドライヤー部で塗布されたフイルムが乾燥のため走行している最中―に誤つてドライヤー開閉スイツチを押しても、ドライヤーは開かないから有機溶剤を含む蒸気が本件作業場に漏出することはあり得ないものである。なお、褜吉の在勤中、ドライヤー専用の局所給排気装置は、ドライヤーの蓋を開放している状態で排気装置のみを作動させることができない電気回路となつていたところ、昭和四九年六年に新たに排気装置のみを作動させることのできるスイツチが取り付けられたが、右スイツチの新設は本件コーターの電気系統回路の安全上の設計に変更を生ぜしめたものではないのである。また、本件コーターの作業者が一回の勤務を行なつている間に、一回ないし数回保守点検のため、或いは食事休憩や仮眠をとるためにドライヤーの蓋を開ける必要の生ずることがある。ドライヤーの保守点検に際しては、先づ塗布部において塗布が中断され、しかる後にフイルムの走行が停止するため、ドライヤー内には磁性塗料の塗布されていない生のフイルムのみが存することになり、しかも、ドライヤー内に送り込まれている熱風を停止してからその蓋を開けるところ、その蓋が開くまでには所要時間一分余を要するので、その間に、ドライヤー内の空気も作業場外へ瞬時に強制排出されてしまうし、ドライヤー内部の温度もほぼ室温程度に下がり、蒸気の新たな発散が行なわれない状態となるものである。右の他本件コーターが作動中ごく稀にではあるが、フイルムが途中で切れたり、或いは連続的に古いフイルムロールから新しいロールに繋ぐ操作が順調に行なわれなかつたりし、その際再作動させるために、ドライヤーの蓋を開けたうえプラスチツクフイルムを接続させ、或いは巻取部まで手送りすることがあり、これを非常停止と呼んでいるが、その場合でも停止後にドライヤー内の局所給排気装置やドライヤー開放スイツチ等が作動する状況は、右の通常の場合と比べて違いがないものである。したがつて、ドライヤーを開放した際には、既にドライヤー内には残留有機溶剤が存していないのである。

(3) ドライヤー内部の払拭作業

本件コーターのドライヤーを開閉して保守点検等を行なう際に、ドライヤー内部の払拭を行なうことがある。右の払拭作業は、俗に洗い液と呼んでいるメチルエチルケトン、トルエン、シクロヘキサノンの混合溶剤をウエスに含ませゴム手袋を使用して拭き取るものであつて、各人の分担業務とは異なり、同じパーテイーの三人が相協力して適宜分担し、或いは協同で行なうことになつているのであるから、特定の者だけが特に多く行なうということはあり得ず、このことは褜吉のパーテイーにおいても同様であり、褜吉だけが担当していたというような事実は存しないものである。なお、ドライヤーを開閉することに毎回ドライヤー内を払拭するわけではなく、払拭する場合でも、右のように三人が適宜分担して行なうことが少なくないので、一人の担当者が払拭業務を行なう回数と時間はさらに少ないのが実情である。また、ドライヤー内部の払拭作業は必らず頭を突つ込んで行なうというものではなく、ドライヤー内部が磁性塗料の付着によつて汚れる部分は長さ方向では五ないし六メートル、幅方向では開口部より七五センチメートル程度の部分にすぎないから、奥の方を拭く場合でも、通常手を伸ばせば頭を入れずに拭くことができるし、それ以外の部分を拭く場合は手を入れさえすれば十分拭けるものである。もつとも、作業者によつては頭を入れている人もあつたが、入れていない人も少なくなかつたものであり、そのことは、頭を入れずに作業を行なうつもりなら、それが十分可能であつたことを示しているものである、なお、ドライヤー払拭作業の際の、作業者の口元における有機溶剤の濃度は、極端に高いということはないばかりでなく、時間的にも右作業が僅か数分にすぎないことを考えれば問題となり得ないものである。

(4) 原告は、ドライヤー内部は摂氏九〇度の高温で磁性塗料に含まれている大量の有機溶剤蒸気が滞留しているドライヤーの蓋を開け、その中に頭を突つ込んでドライヤー払拭作業を行なうので、その際大量の有機溶剤蒸気を吸引してしまうことは避けられない状態であると主張する。しかし、ドライヤー内部に、その作動中、場所によつて多少異なるものの、低い所で摂氏約七〇度、高い所で同約九〇度の無塵乾燥空気が局所給気装置のダクトを通じて供給されており、右の熱風がフイルムに塗布された磁性塗料を乾燥させる際、有機溶剤を含んだ蒸気となることは事実であるが、右の蒸気がドライヤーの局所排気装置のダクトを通じて強制的にドライヤーより直接作業場外(屋外)に排出されてしまうことは右に述べたとおりであり、しかも、右のように熱風が供給されたり、有機溶剤を含む蒸気が発生したりするのは、あくまで塗布業務が行なわれ、ドライヤーが作動している間のことにすぎず、塗布業務が停止―ドライヤーの運転が停止―されると同時に、右の熱風の供給が停止されるため、急激にドライヤー内部の温度が摂氏約三〇度程度に低下すること、ドライヤーの運転を停止した直後にドライヤーを開放した際、ドライヤー内部に残留有機溶剤が存しないこと、払拭作業の際、作業者が必ずしも頭をドライヤー内に突つ込んで行なわなければ作業が出来ないわけではないこと、払拭作業の所要時間が僅か数分間にすぎないこと、等についてはいずれも右に詳述したところである。また、原告は、ドライヤー内部の払拭作業は、ドライヤーが熱いうちに、或いは付いている塗料が乾かないうちに拭かねばならないものであると主張している、しかしながら、ドライヤーには専用の高性能な局所排気装置が設置されているため、磁性塗料を塗布されたフイルムがドライヤー内に挿入されても、それが瞬時に乾燥してしまうものであるから、ドライヤー内部に磁性塗料が付着しても瞬時に右塗料は乾燥してしまい、ドライヤーが開かれた時点で乾燥しないままの状態で残つているということは絶対にあり得ないことである。他方、洗い液を使用することにより、払拭作業が時間の経過やドライヤーの温度等には全く関係なく容易になし得ることは化学的に疑う余地のないところであるから、ドライヤー内の払拭作業をドライヤー開放直後、磁性塗料が乾かないうちに行なわなければならなかつたということは、まつたくなく(というよりは、すでにドライヤーが開放された時点では磁性塗料が乾いてしまつており、そのようなことを考える必要がまつたくないというのが実情である。)、事実、右の作業は、そのようなことにかかわりなく、作業者の判断で、適当な時間経過後に行なわれていたものであつて、右の主張は科学的根拠を欠くばかりでなく、事実にも反する。したがつて、原告の右各主張はいずれも失当であることが明らかである。

(四) 有機溶剤の肝毒性について

(1) 原告は、被告が使用している有機溶剤中、トルエン、シクロヘキサノン、メチルイソブチルケトン、ジメチルホルムアミドは肝毒性を有する有機溶剤だと主張する。しかし、トルエン、シクロヘキサノン、メチルイソブチルケトンは、いずれも肝臓に対する有害作用がない(甲第二四号証)か、弱い(甲第二九号証)とされているものである。原告は、このうちトルエン(トルオール)は純度の低いものであり、多くのベンゼン(第一種有機溶剤)が含まれていると主張する。しかし、被告が使用しているトルエンは、純度九九パーセントという高いJIS規格に該当するものである(本件作業場の環境測定にはベンゼンが検出されていない。)。また、ジメチルホルムアミドについては、塗料中の含有率が約三ないし四パーセントに過ぎないことから、ドライヤー開放時の気中濃度についても、含有率が一〇ないし二〇パーセントであるシクロヘキサノン(ジメチルホルムアミドとほぼ沸点を同じくする。)の気中濃度が0.1ないし1.1PPMであることから推定すれば、単純に比例配分して理論値を求めたとしても0.015ないし0.44PPMにしか過ぎず、この数値はなきに等しいし、洗い液中に磁性塗料の成分が混入しているとしても、洗い液そのものは、磁性塗料を再生したものでもなければ磁性塗料と組成を同じくするものでもなく、被告が、本件コーター塗布部を洗浄した廃液をとりまとめて、有機溶剤処理専門会社へ売渡し、右会社において、この廃液から有機溶剤を再生し、精製のうえ洗い液として被告に納入したものに、適宜未使用のメチルエチルケトンを混入して必要な洗い液を確保し、そのうえで使用しているものであるから、ジメチルホルムアミドは、洗い液中に含有されていないか、或いは含有されていても、無視し得るほど微量にしか存在しない状態となつているものである。ちなみに、再生された洗い液について、第三者機関たる専門の分析センターに依頼して測定したところ0.0033パーセントのジメチルホルムアミドが検出されたが、これは、化学実験用の特級試薬の純度(通常約98.9パーセントとされている。)に比しても、常識的にはゼロと言い得るものである。

(2) 原告は、被告が昭和四九年春および秋に実施した有機溶剤取扱者特殊健康診断の結果において、七名の有所見者があつたことを捕えて、褜吉と同種の作業者に有機溶剤による障害が生じていたと主張する。しかしながら、右の有所見者七名は、臨床的にはいずれも「異状なし」といえるものであるばかりでなく、右の診断結果は、他の一般作業従事者(有機溶剤を取り扱わない従業員)の診断結果と比べて、何等医学的に有意差を認められないものである、すなわち、右診断を行なつた医師が労働基準監督署の求めにより、右診断で所見のあつた者につき、さらに詳細に医学的説明を行なつたものによれば、有所見者のうち、痔出血の疑いのあつた訴外野崎幸夫を除くその余の者に関し、「有機溶剤中毒予防規則として定める健康診断項目以外に肝機能検査として、黄だん指数、TTT、ZTT、GOT、GPTの五項目を実施した結果である。」とされていること、並びに「有機溶剤を取り扱わない一般検診における肝機能異常発見率と有機溶剤取扱職場における発見率との間に有意差があれば当該職場における有機溶剤による肝機能障害が起り得ると考えられるが、当ソニーマグネプロダクツ株式会社対象職場における肝機能異常者の発生率は、一般検診者のそれと比較して特に高いとは思われない。」とされていることは、右の有所見者が訴外木村定己(「採用時より蛋白は時々(+)となる。臨床的には。異状なし」とされている。)を除き、すべて一時的な所見―しかも「臨床的には異常なし」(乙第二六号証)とされる所見―があつたにすぎず、昭和五〇年六月の特殊健康診断では何等の所見も指摘されていないのである。したがつて、原告の主張は失当である。

(3) 被告は、磁気テープの開発生産より二〇年間の歴史を有しているが、従来より有機溶剤による肝臓障害は一名も発生しておらず、過去被告において有機溶剤業務に従事して来た従業員は約三百人近くもいるにかかわらず、有機溶剤によつて体を悪くしたと言つている者は褜吉のほか、まつたくなかつたものである。殊に、訴外久道純一郎の場合は、本件コーターを含む塗布業務に八年間にわたり直接携わつたばかりでなく、その前後を含め約一〇年間も有機溶剤を取り扱う業務に従事してきたにもかかわらず、現在まで肝臓障害を訴えたことがなく、現在も健康で勤務に就いている。また、褜吉が本件コーターの作業者として勤務していた期間、右久道ほか一二名が同様の勤務に就いていた(しかも、その中には、塗布部を担当し、有機溶剤に暴露する頻度が褜吉よる格段に高いものも含まれていた。)にもかかわらず、特殊健康診断においてそれらの者につき何等の所見も指摘されていないことは、本件コーターの作業環境が良好なものであつたこと、したがつて、褜吉の肝障害が有機溶剤によるものでないことを如実に示すものといえるのである。

3  肝障害と死亡

(一) 褜吉の肝障害の経過

(1) 褜吉の病状の推移を記載した同人のカルテ中臨床検査成績によれば、入院当初の黄疽指数、GOTおよびGPTの数値は、いずれも四〇〇ないし五〇〇単位以上で、一週間後にはさらに黄疸指数一一〇、二週間後には同一六〇まで上昇しているが、三週間目頃には同八〇となり、以後低下の一途をたどり、昭和四九年三月二七日には黄疸指数一八、GOT三五、GPT三八とむしろ正常値に復している。この臨床所見は、剖検診断で明らかにされた肝臓の瘢痕の存在(一般的には瘢痕の形成は障害された組織が修復過程にあることを示すもので肝臓とても例外ではない。)、および褜吉の肝臓の状況は死亡するほどの障害を受けていなかつたという病理所見と合わせ考えるならば、同年三月二七日頃には同人の肝障害は順調に軽快し、或いは治癒しつつあつたと考えられるのである。このことはカルテの同年三月二五日欄に「トランスアミナーゼは正常化」と記載され、また当時の褜吉の症状は食欲もあり気分も良いというのであるから、右の推論の確かさは容易に肯定しうるのである。ところで、褜吉は、入院後六週間程経過した頃から浮腫、発熱(摂氏三八度台)などが現われ、また頭痛を強く訴えている。そして、同年四月に入り頭痛が増強し、同年四月六日に意識障害が出現しているが、意識障害その他の症状がいくたびも増悪と軽快を反覆している。このような症状の経過に対して、中里医師は、同年三月二六日に、入院中の褜吉から、同人の職場環境が有機溶剤のためものすごい臭いで、乾燥機の中に頭を突つ込んで修理をするが、この乾燥機の中は九〇度の高温で熱風のガスをまともにかぶるという作業を一日数回やるということを聞き、その症状がウイルス性肝炎でもアルコールによる肝障害でもなく、また脂肪肝でも肝癌でもないところから、有機溶剤ガスの吸引による中毒性障害である、しかも同人の症状からみて劇症肝炎であると診断したものである。さらに、中里医師は、褜吉の治療に際して同年二月一九日からその死に至るまでリンデロン等のステロイドホルモン(副腎皮質ホルモン)を大量に投与し、また抗生物質(リンコシン、ビクシリン、イナ)をも投与していたし、褜吉がクリプトコツカス症に罹つていたということについては同人が亡くなるまで発見できなかつたものである。

(2) 毒物はよる肝障害の場合、軽症中毒症では最初の二、三日中に蛋白尿、円柱尿が証明されるのが普通であり、重症例では二、三日の間に欠尿が現われ、ついで漸次無尿になるのであるが、褜吉の場合カルテによれば、肝障害の発症当時欠尿、無尿は勿論蛋白尿、円柱尿の症状は何等現われていない。また、有機溶剤は神経系や皮膚粘膜等に対する作用或いは影響において、特に麻酔性等において肝臓に対する有害性とは比較にならぬほど強い毒性を有するものであり、有機溶剤中毒性としての報告例やその中毒性と疑われた報告例等に見られる症状が、いずれもめまい、吐気、貧血、頭痛、寒気、腱反射亢進、眼の障害等となつているのであるから、仮に、被告において作業環境に問題があり、従業員等が有機溶剤を多量に吸引することがあるとすれば、肝毒性に基づく障害が発生する以前に右の頭痛等の症状が発生するはずであるし、褜吉の肝障害が有機溶剤によるものであれば、同人は肝障害発生前に吐気、めまい、眼の障害等の病状を訴えていなければならないのにそのような事実はなかつたものである。さらに、有機溶剤にはいずれも被代謝性があり、たとえ体内に吸引されたとしても肝臓に滞留することなく容易に代謝されて体外に排出されてしまうのであるから、有機溶剤に暴露されることがなくなれば肝障害も治癒に至るのである。有機溶剤に暴露されないで新たに有機溶剤に因る肝障害が生ずることはあり得ないし、そもそも有機溶剤に因る肝障害は、人で起こることは極めて稀であつて、ことにこれによる死亡例は、今日まで絶無といつてよいのである。

(3) 要するに、褜吉は同年二月一三日に入院し、同年三月二〇日頃には肝障害は軽快の方向に向つていたが、入院後約六週間を経てから生じた浮腫、発熱、頭痛等の症状は、褜吉に髄膜の他、肝、腎、肺、リンパ節、骨等にクリプトコツカス感染による病変の存するところから、いずれもクリプトコツカス感染症に因るものであり、肝障害に因るものとは認められないのである。すなわち、褜吉はウイルス性肝炎を患つて入院し、中里医師の治療によつて肝炎は五週間後には著しく快方に向つていたところ、従来より罹患していたクリプトコツカス感染症が悪化し、或いは治療中に施した副腎皮質ホルモン剤等によつて保菌していたクリプトコツカス感染症が増悪し、遂に死に至つたものというべきである。仮に、褜吉の肝障害が有機溶剤によつてもたらされたものであつたとしても、同人の肝臓組織の最もひどい部分を見てこれだけで死亡に至ることはないし、死亡の直接原因がクリプトコツカス感染症であり、肝障害によるものではない以上、有機溶剤は褜吉の死亡と直接因果関係を有するものではないのである。

(二) 肝障害とクリプトコツカス症

(1) クリプトコツカス症は、わが国では昭和二八年より症例の増加がみられているが、比較的新しい部類に属する病気であつて、病原菌であるクリプトコツカス菌は、鳩など鳥類の糞の中から特に高率に検出され、乾燥とともに胞子となつて空中に飛散し、呼吸器に吸引され、肺に初期感染病巣を形成するのが普通である。しかし、肺の初期感染は自然治癒しやすいため、無自覚のうちに或いは風邪程度の症状のうちに検査も治療も受けずに治癒することが多いが、時にはそれが全身に広がることもあり、ことに髄膜に播種巣を形成し中枢神経系を侵しやすい。また、本邦集計例では、四五例が基礎疾患なしに原発しており、五〇例が基礎疾患に続発しているが、約半数が基礎疾患なしに原発していることは、本菌の病原性が強いことを示している。ところで、横浜市立大学医学部教授福島孝吉によれば、「真菌の菌力は弱く、逆に言えばヒトは強い自然免疫を真菌に対して持つている。」から「従来真菌症はまれな疾患であつた。近年における真菌症の増加の原因は、真菌の側の菌力の増大は考えられないので、患者側の抵抗力の減弱にあるとはすぐ想像されるわけである。」とし、抗細菌化学療法の進歩がまず第一の誘因であり、第二の誘因は副腎皮質ホルモン剤の副作用によるものであるとしている。また、「その炎症抑制、抗体産生抑制作用によつて感染症を増悪する。ことに病巣を再活動させ、進展させ、播種させる増悪作用が強い。」(乙第七号証二二一頁)と説いており、副腎皮質ホルモン剤の使用が真菌症の発症並びに増悪に重大な影響があることは真菌症学の通説となつている。

(2) ところで、褜吉は、肝障害を起こし入院後、その治療中にリンデロン、デカドロン等の副腎皮質ホルモン剤を昭和四九年二月九日より死亡するまで連日二ないし八ミリグラム投与されており、また同人の肝臓が死亡する程悪化していなかつたものであることや、直接の死亡原因がクリプトコツカス症であつたことは明らかである。したがつて、褜吉は肝障害の治療中、肝臓は軽快していたが、その間投与された副腎皮質ホルモン剤の副作用により、炎症抑制、抗体産生抑制作用を起こしたために細菌、病原菌に対する抵抗力が減弱し、保菌していたクリプトコツカス菌が活動を開始して肺に感染巣を形成し、それがさらに増悪して全身に感染、髄膜に播種巣を形成し、髄膜炎に因り死亡したと考えるのが妥当である。しかも、褜吉の場合には、まずクリプトコツカス症に感染し、治療中に肝障害に陥つたとする仮定すら成り立つのである。すなわち、クリプトコツカス症と肝障害とは特に有意の関係がないこと、九五例中四五例と約半数は発症から死亡までの期間が三か月以上であること、剖検診断によれば「髄膜の混濁性肥厚と脳実質障害を伴なう広汎なクリプトコッカス髄膜炎」というのであるから、クリプトコツカス髄膜炎と考えるのが妥当であろうし、そうだとすると「本症の髄膜炎は慢性の経過が特徴的である。」と一致すること、同じく剖検診断によれば、肺や腎臓には膠様病巣ならびに肉芽腫性病巣が見られるというのであるが、このことは「慢性病変は、その両極端として膠様病巣と肉芽腫性病変とがあげられる。」とも一致すること、さらに褜吉は入院当初(二月一九日)より毎日ステロイドホルモン(副腎皮質ホルモン)剤(リンデロン・デカドロン)を八ないし二ミリグラム与えられていたが、副腎皮質ホルモン剤は、直接間接の誘因として真菌症の発症を促進し、殊に、その濫用による生体の抵抗性減弱化による真菌症の発症は疑う余地がなく、このような基盤において惹起された真菌症は重症化し、致命的感染に発展する傾向が多いのであるから、同人が入院前にすでに体内にクリプトコツカス菌を保有していたところ、入院当初より副腎皮質ホルモンの投与を受けたため、生体が元来保有している抵抗力が減弱し、普通ならば無自覚のうちに、あるいは風邪の程度の症状のうちに検査も治療も受けずに治癒しているものが、本件については発症するに至つた、と考えられもするのである。

(3) クリプトコツカス症は、右に述べたように約半数が基礎疾患なしに原発しており、このことは本菌の病原性が強いことを示していること、また、わが国で確実に診断されたクリプトコツカス症九五例のうち、結核、血液疾患などを基盤としたと考えられるものが五〇例で、肝疾患はその中の五例に過ぎないことから、原告主張のように、続発性真菌症と断言することも、また肝障害に起因すると断言することもできないのである。

(三) 肝障害の原因に対する反論

(1) 原告は、病理学上の根拠として四点をあげているが、第一点については、肝小葉の中心壊死は、薬物によつて肝臓が侵されたときに限られるものではなく、種々の伝染性中毒性疾患およびシヨツク状態を伴う疾患、急性貧血症の剖検例でも認められるのであり、うつ血、貧血などの高度の酸素欠乏症の起こるときにも中心壊死を起こすし、急性ウイルス性肝炎の場合にも、中等症においても早期の肝生検標本においては小葉中心部の帯状壊死が見られる場合があるのである。特に褜吉の場合、肝小葉の中心壊死があつたからといつて、それが直接死因になる程悪化していたのではなく、死に至らない程度の壊死であること、および同人の肺にはクリプトコツカス症による鶏卵大の空洞並びに人差指の頭位の大きさの肉芽腫が無数に存在していたというのであるから、肺の機能は著しく低下していたと考えられ、これによる酸素欠乏症が発生し、死に至らない程度の肝小葉の中心壊死を発生せしめたと推論することの方がむしろ妥当だと考えられるのである。したがつて、褜吉の肝小葉に中心壊死が見られたからといつて、それが直ちに有機溶剤に結びつくものではない以上根拠とはなり得ず、第二点については、本症例は発症後約五週で臨床検査成績の上でかなり改善され、その後約四週で死亡し、解剖に付されているので、その時点では、もはや炎症はほとんど終熄していても怪しむに足りないのである。つまり、肝炎の消褪とともに炎症性細胞浸潤は減少し、治癒とともに消失することがあるのであり、病変が最も激しかつた時点での議論ならばともかく、褜吉の場合発症後約五週間目頃臨床検査成績はもはや平常値に近づき、その後死亡するまで約四週間経過しているのであるから、これまた根拠となり得ず、第三点については、前述したように、褜吉の勤務していた職場環境は良好であり、有機溶剤の気中濃度についても、「社団法人日本産業衛生学会」が定めた勧告値よりはるかに低く、同人が劇症肝炎を起こすに足るような有機溶剤ガスを吸入したとは考えられないし、第四点については、まつたく根拠となり得ない。また、原告は、ウイルス性肝炎を否定する根拠として、ウイルス性肝炎の場合にしか見られない所見と称して六点をあげるが、それらのうちグリソン鞘の部分にも肝細胞の壊死が起こるという主張は、「早期の肝生検標本においては小葉中心部の帯状壊死が見られる場合がある。」(甲第六九号証一一一頁)とされていることに反し、残存肝細胞の配列の乱れは種々の肝障害に際しても見られることであり、類洞の内皮細胞、クツバー細胞の膨れは「Kupffer細胞の動員などは、もつと発症の初期に見られる現象で、それはこの場合問題にはならない。」(乙第二号証一〇頁、同旨甲第六九号証一一五頁)ことであり、肝実質の細胞浸潤も右第二点について述べたところから根拠たり得ず、グリソン周囲の胆管の増生についてもウイルス性肝炎に特有の所見とは言い難い。したがつて、これら六点をもつてウイルス性肝炎を否定することはできない。なお、中毒性肝障害とウイルス性肝障害とは、「個々の人体例でウイルス性肝炎か中毒性のものか判定が困難な場合がある。」(甲第二〇号証六二七頁)とされており、その区別は極めて困難だとされている。以上述べたところから、褜吉を中毒性の肝障害とすることはできず、原告の「有機溶剤中毒としての特徴は顕著である。」との主張は当を得ていないのである。

(2) 原告は、臨床上の根拠として、問診を最も重視すべきであり、被告の「阿部係長代理から職場環境、作業内容、使用有機溶剤の種類等を聴取したうえで診断を下し」たと主張している。問診を最も重視すべきか否かの議論はさておいて、問診により褜吉の肝障害を有機溶剤によるものではないかという疑問を抱いたとしても、その疑問を裏付けるような事実の確認をなすべきであつた。まして本件に関してはむしろそのことを否定するに足るいくつかの事項が存在するのである。すなわち、一つに、前述したように褜吉の勤務していた職場の環境は良好であつたこと、二つに、有機溶剤による中毒では、発症より最初の一週間の症状は最悪であり、その後肝炎は消褪するが、同人の場合入院後つまり有機溶剤に暴露しなくなつてから二週間程経過してからむしろ状態が悪化しており、有機溶剤による中毒とは結び付かない症状を呈しているのである。中里医師は、問診によつて得られたことをそのまま確信せずに、その様な事実の有無をよく検討するだけの余裕と慎重さを有すべきであつた。また、「通常の肝障害とは思われないとする根拠」についても、血清蛋白分画の異常や異型リンパ球の見られない状態は、ウイルス性肝炎でも起こり得ること、オーストラリア抗原(HB抗原)が陰性というだけではウイルス性肝炎でないとは言えないこと、すなわち、厚生省の「難治性肝炎研究班」で、もつとも敏感でかつ特異性のある検出法で調べた結果、ウイルス肝炎と思われる症例でのHB抗原陽性率は三〇パーセント以下ではあるが検出されているのである。副腎皮質ホルモンはそもそも肝障害を治療するための医薬品ではなく、その効力の遅速でもつてウイルス性肝炎か否かを判定することもできないのである。以上述べたとおり、これらはいずれも何ら根拠となり得ないものであるから、原告の主張は失当である。

4  被告の安全保護義務について

(一) 職場における安全衛生活動

(1) 被告の安全衛生管理に関する基本姿勢については、前述(2(一))したとおりであるが、被告の職場における安全衛生活動のうち、本件コーターの作業場を統括するテープ部門製造第一課内における安全衛生活動は、ブロツク安全衛生委員会を中心として行なわれていたが、その具体的活動の一部を挙示すれば、次のとおりである。すなわち、委員会は、原則として毎月開催されているが、例えば昭和四八年七月度は七月一九日に開催され、年間計画表に基づき各工程の月次計画内容の実施状況報告、職場巡回点検結果の報告等がなされた。また同委員会では、従来より毎月一回委員が工場内巡視を行なうこととしていたが、右七月の委員会において、この工場内巡視に用いるためチエツクポイントを網羅した「安全点検表」が統一基準様式として作成されたので、それ以降はそれによつて点検が実施された。なお、テープ部門では、一年を二期に分け(五月ないし一〇月と一一月ないし翌年四月)、毎期末に翌期の安全目標を定めることを原則としていたが、昭和四七年一〇月には、翌期(同年一一月ないし翌四八年四月)の安全目標として「安全の基本を、もう一度見直そう」ということが定められた。そのため同年一一月以降同部門内の各ブロツクではその方針のもとに安全衛生活動を行なつたが、製造第一課内の第一ブロツク(褜吉の所属していたブロツク)では、右の目標に基づき、安全衛生標語募集を行なつたところ強い関心が集まり、一人二件近くの標語が寄せられ、安全衛生意識昂揚に大きな成果があつた。また、テープ部門の安全衛生委員会は、昭和四八年度年間計画において、他工場(会社)の安全衛生見学会を実施することを定め、同年一一月二一日、二二日の両日、日本ペイント株式会社東京工場、ユニチガード株式会社(消火器メーカー)工場につき実施された。その結果は見学者によつて職場内の工程班長、係長、課長等に報告され、安全と衛生に関する見聞を広め多角的に委員会活動を行なうことに資することが大であつた。

(二) 環境測定について

(1) 本件作業場における全体換気および局所吸排気各装置はそれぞれ十分な性能を有していたので、被告の職場環境は良好であり、また有機溶剤気中濃度測定の結果も極めて良好であつたことは前述(2)したとおりである。ところで、予防規則二八条は、法六五条、施行令二一条をうけ、作業環境について測定すべき業務と測定対象となる有機溶剤とを定めており、被告の場合はトルエンのみがその対象となつているが、同条による有機溶剤の濃度測定については、その測定方法について定めがなく、労働省安全衛生部労働衛生課編「有機溶剤中毒予防規則の解説」にも「現在本規則の対象となる有機溶剤のすべてについて測定法が確立しているわけでなく、また測定法はあつても各事業場で使用できるような簡便な測定器具のないものが多い。……本条は、右のような事情を考慮し、特に六種類の有機溶剤についてのみ測定義務を課することとしている。この有機溶剤は簡易測定法による測定が可能なもののうちから選定された」と記載されているにすぎない。しかし、被告は、トルエン以外にメチルエチルケトン、メチルイソブチルケトン、シクロヘキサノン等の混合有機溶剤を取り扱つており、法定のトルエンのみの濃度測定では正確な作業環境を把握できないこと、簡易測定法による測定では右のような混合有機溶剤の測定には誤差が大きく、正確な作業環境の把握には適さないこと等を考慮し、簡易測定法によることなく、精度の高いガスクロマトグラフ法を採用するとともに、トルエンのみならず、本件コーターおよびその付近で使用していた有機溶剤のうち測定可能なもの(測定した場合検知し得るもの)すべてについて測定を行なつたものである。

(2) 被告は、昭和四八年一二月七日に濃度測定を行なつたものの、その後昭和四九年五月二四日に行なうまで濃度測定を行なわなかつたため、予防規則二八条二項の「三ケ月以内ごとに一回」という定めに違背する結果となつたが、これを褜吉との関係についてみれば、昭和四八年一二月七日の測定後、同人が現実に勤務していた期間は昭和四九年二月九日までであり、その間は六四日にすぎないから、労働安全衛生法の作業環境測定義務との関連において問題となる余地は全く存しないし、昭和四八年一二月七日の測定値も、昭和四九年五月二四日の測定値も、ともに本件コーターの作業環境が極めて良好であつたことを示しており、その間一時的に急激に本件コーターの作業環境が悪化したというような事実はないのであるから、右の義務違反は褜吉の死因と何等の関連性もないものである。

(3) 被告が、昭和四八年一二月七日の測定後昭和四九年五月二四日の測定まで五か月余を経過してしまつたことについては、右一二月七日の測定を第三者の専門機関たる中央労働災害防止協会東北安全衛生サービスセンターに依頼して行ない、その測定結果を検討することにより、その後の濃度測定の実施方法等について考慮することとしていたところ、右サービスセンターの測定結果が翌四九年一月半ばに報告されたため、その後被告において右の検討をけ続ていた間に、次回の濃度測定の実施が遅れてしまつたという事情が存するものである。したがつて、被告が労働安全衛生法の環境測定義務に違背したことは事実であるが、それは、環境測定の必要性を軽視した結果に基づくものではなく、逆に右測定の必要性を重視するあまり、第三者の専門機関たる――しかも、労働災害の防止に寄与することを目的とし、事業者に適切な助言を与える機関として設立されている――右サービスセンターの熟練技術者に濃度測定を実施してもらうことによつてより客観的な資料を得るとともに、併せて専門的見地から作業環境に関する助言、指導をも受け、それによつて作業場の改善計画に資することを考えるべく、準備、検討していたために生じたことであるから、右の義務違背をとらえて被告の安全衛生に対する姿勢を論難することは失当といわなければならない。

(三) 保護具の使用について

(1) 予防規則一条三号は「業務」ごとに、同規則にいう「有機溶剤業務」につき定めており、同規則二条の適用除外の規定も「業務」に「労働者を従事させる場合」ごとに定められているところ、本件コーターのドライヤー払拭作業が同規則一条三号に掲げる「払しよくの業務」に該当することは明らかであるが、本件コーターの場合、同業務による有機溶剤の消費量は同規則二条一項二号に定めた許容消費量を超えないので、右「払しよくの業務」は同規則二条の適用除外に該当する。したがつて、本件コーターの「払しよくの業務」については、第七章の規定(三三条防毒マスク等の使用)が適用されないから、被告としては従業員を右作業に従事させる際、防毒マスク等を使用させる義務はないものである。すなわち、塗布作業工程の装置並びに作業状況は前述(2)したとおりであり、殊に、乾燥部の業務は、作業者が従事せず、払拭作業のためドライヤーを開放した際ドライヤー内には有機溶剤蒸気がほとんど残有していないのであるから、ドライヤー内の払拭は「乾燥」工程とは全く異なる作業形態―作業者がウエスに洗い液といわれる混合有機溶剤を含ませ手で払拭するという形態―で行なわれるものであり、時間的にも、作業形態の点においても全く別個の業務である。したがつて、塗布工程および払拭作業は、予防規則一条三号に掲げる有機溶剤のうち、①塗布工程作業の「塗布」部分はリに掲げる塗装の業務、②塗布工程作業の「乾燥」部分はヌに掲げる乾燥の業務、③ドライヤー払拭作業はチに掲げる払しよくの業務に、それぞれ該当させるのが妥当である(「巻出」部分と「巻取」部分は有機溶剤業務ではない。)。なお、同規則に掲げている有機溶剤業務は、被告のような磁気テープ生産のような装置産業的生産設備の業務形態を前提として規定されていないことがうかがわれ、右の①ないし③の各作業が、明確に同規則に掲げる有機溶剤業務のどれに該当するかについては疑問があるが、いずれにしても当該業務の形態と同規則に掲げる有機溶剤業務が制限的に列挙された趣旨とに照らせば、右に示したような適用関係になると考えるのが妥当である。仮に、塗布作業工程全体がホに掲げる「物の面の加工の業務」、或いはリに掲げる「塗装の業務」に当るとしても、右の「払しよくの業務」が明確にそれと区別されることはいうまでもないことである。

(2) 予防規則二条は、個々の「業務」に「労働者を従事させる場合」ごとに適用除外を定めており、同規則一条三号のハからルまでのいずれかに掲げる業務に労働者を従事させる場合、同規則二条各号のいずれかに当るときは当該業務の適用を除外すると規定しているが、右に述べたように、本件コーターのドライヤー払拭業務が同規則一条三号のチに掲げる「有機溶剤業務」であり、その有機溶剤の消費量は、一回(作業時間は三分長くても五分程度)につき平均六〇グラムであるから、同規則二条の適用の除外に当り、同条で除外している第七章三三条の規定は適用されないことが明らかである。なお、右の払拭作業の際の有機溶剤消費量は、洗い液溶器内の目減り実態量から一回当り平均六〇グラムと測定されているところ、ドライヤーを開閉する回数は、一勤務(七時間三〇分)当り1.9回(但し、ドライヤーを開閉する都度必ず内部を払拭するとは限らないし、払拭する際にも作業者が協力して行なうので、同一人のみが毎回行なうわけではないから、一人当りの払拭回数は、これよりも相当下まわる。)であるから、右の消費量とドライヤー開閉回数から一勤務当りの消費量を(仮に開閉する都度全員で払拭するとして)計算すれば、平均一一四グラムとなり、一日当りの消費量を単純にその三倍とすれば三四二グラム、一時間当りでは15.2グラムとなる。他方、本件作業場の気積は890.27立方メートルであるから、許容消費量(W)は(5/6×気積)、すなわちとなるが、この数値に比し、右の払拭業務の際の消費量(一時間当り15.2グラム)は遙かに低く、また一日当りの消費量(三四二グラム)を考えても、払拭作業の消費量は許容消費量より遙かに低いのである。仮に、前述したドライヤー払拭作業の業務が、予防規則二条に該当する適用除外業務でないとしても、右業務は同規則三三条一項二号に該当せず、法規上ホースマスク又は有機ガス用防毒マスクを使用させなければならない業務には該当しない。すなわち、本件コーター作業場の機械・装置および有機溶剤取扱業務に関連する全体換気装置局所排気装置等の設置状況から、本件コーター作業場は、塗布部に当る塗布室と、巻出機、乾燥機、巻取機の設置してあるドライヤー作業場とに分けられ、塗布室とドライヤー作業場は、間仕切りによつて遮閉され、乾燥機(ドライヤー)とドライヤー作業場とも遮閉されている。したがつて、塗布室において行なわれる有機溶剤業務と、その余の作業場で行なわれる有機溶剤業務とはまつたく別個のものであるし、それぞれの作業場も予防規則の適用上明らかにおのおの独立した作業場と考えるべきものであるから、ドライヤー作業場には全体換気装置として給気系の設備が設置されているばかりでなくドライヤー上部にドライヤーに平行に設置されている全体換気(排気)装置は、その取付位置並びにその機能からみて「局所排気装置」としての機能を十分に果しているとみなし得るものであり、右作業場は予防規則三三条一項二号に該当せず、局所排気装置を設けた場合に該当し、「全体換気装置を設けた」という場合に当らないから、同作業場においては法規上防毒マスク等の使用義務はないものである。

(3) しかしながら、被告は、更に安全を期し、以前より防毒マスクを購入して塗布作業場等に配置し、種々の保護具の一部としてその使用を指示していたものであり、機会あるごとに職場内の安全衛生委員会等でも保護具を着けるよう呼びかけ、本件コーター作業場内にも「保護具を着けよ」の掲示をしていたものである。なお、被告は、その事業内容の性格上、安全と衛生に関して、仙台労働基準監督署の監督官を通じて行政的見地から指導を受けるとともに、中央労働災害防止協会東北安全衛生サービスセンターの技術者に、本件コーター作業場を視察せしめ、適宜適切な助言指導を受けていたものであるが、本件発生まで、それらの機関より、保護具の使用につき欠けるところありとして指導を受けたような事実はまつたくなかつたものである。したがつて、本件作業場では、予防規則三三条の規定との関係においても適法に業務が遂行されていたと認められるものである。

(四) 職場導入安全衛生教育

(1) 被告は、新入社員の雇入れに際し、常にほぼ一日を費して安全と衛生に関する教育および会社社員としての案内、指導、方向付(オリエンテーシヨン)を実施しているが、更にその後、各職場へ配置した直後においても、各職場ごとに、より一層徹底した安全衛生導入教育を、作業内容に合わせて個別にマン・ツー・マン方式で、簡単なことから少しずつ実際に行なわせるなどしながら実施しているものである。

(2) 褜吉の場合においても例外でなく、入社日に他の入社者とともに、午前中会社会議室において総務課勤労係員より会社概要(社史、資本金、生産品目、組織、福利厚生関係等)、関連会社の概要、就業規則の内容(勤務、給与、社会保険、一般的安全衛生事項、機密保持等)、有期雇用者契約の内容等につき説明を受け、かつ質疑応答を行ない、午後には、配属先のテープ部門製造第一課塗布工程の班長より、同日入社して同職場に配属された他の者と一緒に、安全衛生教育を主体とした職場導入教育を約三時間にわたつて受けたもので、その内容は、①課内の組織、製造工程および製造品等の説明、②災害発生時の行動要領の説明、(3)溶剤の取扱い方および注意方法の説明(危険性、取扱方法)、(4)塗布工程の説明、⑤勤務上の説明、⑥安全および衛生関係全般の説明、⑦その他付随事項、なお、有機溶剤に関しては、右の②ないし④および⑥⑦の中で、その化学的性質、有害性、取扱方法等について説明を行なつたものである。右の入社日に行なわれた教育は、主として講義形式(座学)により実施されたが、実施の作業手順その他の安全衛生教育は、その後現場の作業場で機械装置を前にしてマン・ツー・マン方式で行なわれ、褜吉の場合は、本件コーターの担当に配置と同時に塗布工程班長および本件コーター担当のリーダーより教育を受けたものである。また右の実施教育の他に、褜吉ら新入社員を含む塗布工程班長に対し、作業の安全な遂行に必要な基礎的知識を修得させるため、毎週末に一回約一時間ずつ交替勤務者を一堂に集めて勉強会が開催されたが、この勉強は三か月間程を費し、右班長が講師となつて、具体的かつ詳細に行なわれたものである。

(五) 健康診断について

(1) 被告は、従業員を新たに採用する際、入社健康診断を行なつているが、褜吉は昭和四八年四月一三日にこれを受け、また被告は、毎年四月ないし六月頃に全従業員を対象として定期健康診断を実施しているが、褜吉は同年六月一九日に同年度の定期健康診断を受診し、身長、体重、視力、尿検査(タンパクおよび糖)、血圧、全血比重の項目について検査測定を受け、また、胸部X線検査および保険婦による問診を併せ受けたもので、右の健康診断は、被告診療所の看護婦、医師の他、ソニー株式会社健康管理室所属の看護婦、保健婦、衛生検査技師おび塩釜市立病院のレントゲン技師が行なつたものである。

(2) 被告は、右の他に褜吉を含む有機溶剤取扱者に対し、予防規則二九条のいわゆる特殊健康診断を昭和四八年五月八日に実施し、その際全血比重の測定尿検査(蛋白、ウロビリノーゲン)、歯牙検査および医師による問診を行なつたが、右健康診断は、被告が財団法人宮城県労働衛生医学協会に依頼して行なつたものである。ところで、被告は、右の特殊健康診断を実施した後、六月以内に同様の健康診断を実施すべく、昭和四八年一一月頃を予定していたところ、この健康診断の実施を依頼していた医療機関の都合で年内実施は不可能であるとの連絡があり、結局翌年五月一三日まで遅れてしまい、そのため法六六条二項に違反する結果となつた。しかし、予防規則に規定する特殊健康診断は、一般の医療、診療機関では正確な診断が出来ない場合もあり、現在それを行ない得る機関は限定されているのであるから、被告としては、従来依頼していた医療機関に右のように申し出られた場合、すみやかな実施を希望しつつも、他の代替機関に一時的に代行を依頼することも出来ず、当該医療機関が実施可能となるのを待つほかなかつたものである。したがつて、法六六条二項に違反する結果となつたのも、右のように医療機関側の事情に基づくもの―正確には医療体制の問題―であるから、それをとらえて被告の安全衛生に対する姿勢を論難するのは失当といわざるを得ない。

(3) 他方、昭和四八年一一月頃褜吉が健康に異常を訴えていたような事実はなく、その頃同人は従来と変わりなく勤務に従事していたことが認められること、被告が常時工場構内に診療所を開設し、従業員の健康に関し診療や治療を行なつており、褜吉も必要に応じ随時これを利用していたにもかかわらず、同人は右一一月頃以降一回も診療所を利用していないこと、褜吉の肝障害が急性のものであり、その発病は昭和四九年二月一〇日前後と認められること等に徴すれば、仮に、被告が右一一月頃に予定どおり特殊健康診断を実施したとしても、褜吉には何等の異常も認められなかつたはずである。したがつて、褜吉の発病と右の労働安全衛生法違反の事実とは困果関係がなく、まして同人の死因と右違反事実とは何等の関連性もないものである。

5  予備的主張

(一) 原告らは、本件において、昭和四九年度賃金センサスに基づき褜吉の逸失利益を算定し、請求している。しかし、仮に、被告が原告らに対し損害賠償義務を負うとしても、褜吉の逸失利益は、あくまでも同人が死亡直前に現実に得ていた収入の額を基準として算定されるべきであり、被告としては、賃金センサスを基準として算定した額のうち、右の現実の収入額を基準として算定した額を超える部分については、支払の義務を負わないものである。すなわち、逸失利益の算定に当つては、安易に統計資料によるべきではなく(最高裁昭和三七年五月四日判決、民集一六巻五号一〇四四頁)、被害者が年少者で、将来いかなる職業につくか予測し得ないような場合など、通常男子の平均労賃を算定の基準とすることが一応肯認し得る場合でも、将来の昇給を度外視した控え目な計算をすべきであり、算定方式は合理的なものでなければならない(最高裁昭和三九年六月二四日判決、民集一八巻五号八七四頁)が、被害者がすでに就労年令に達した者であつた場合には、事故前における現実の稼動状況に基づいて逸失利益を算定すべきであり(最高裁昭和四四年一二月二三日判決、判例時報五八四号六九頁)、たとえその者の現実の収入額が統計資料の平均額を下まわつていても、現実の収入額を基準として算定すべきである。しかるに、褜吉の場合は、前述(1)したように、死亡直前の昭和四九年四月一九日まで被告に雇用され、固定給(月額)一万四〇〇〇円、作業給(時間給)三一二円、皆勤手当(週単位。但し一週間皆勤の場合のみ)一〇〇〇円を支給されていたばかりでなく、被告は同年三月二六日頃、同年四月二〇日以降でも、同人の病気が回復し、就労可能となつたときは優先的に再雇用することとし、その旨を同人に伝えていたものであるから、同人が死亡することなく就労可能であつたと仮定した場合、同人は、右四月二〇日以降も同月一九日以前と同様の労働条件で被告に就労していたと考えるのが最も妥当である。したがつて、右の現実の(正確には、現実に最も近い)稼働状況に基づくことなく、賃金センサスを基準として褜吉の逸失利益を算定することは、失当であるといわざるを得ない。

(二) 原告らは、また、昭和四九年五月より昭和七七年一二月までの収入額を算定した後に、その期間の生活費相当分として一〇〇〇万円を差引く方式を採用しているが、仮に被告が原告らに対し損害賠償義務を負つているとしても、右は合理性に欠けるものである。

四、原告らの反論

1  有機溶剤の肝毒性について

(一) 使用有機溶剤の肝毒性に対する被告の反論については、被告の引用する甲号証の表はいずれも有機溶剤の一般毒性について記載しているものであり、これら表示は、「感受性には個人差があり、印のついてない臓器を障害する可能性は否定するものではない」(甲第二九号証五〇六頁)のであつて、トルエン、シクロヘキサノン、メチルイソブチルケトンの一般毒性として、肝毒性があると表示されているのであるから、これら有機溶剤による肝障害の可能性は極めて強いといえるのである。

(二) ジメチルホルムアミドの吸引暴露について

(1) ドライヤー開放時の気中濃度

被告は、ドライヤー開放時におけるドライヤー内のジメチルホルムアミドの気中濃度を、シクロヘキサノンの気中濃度0.1ないし1.1PPMとの比例配分計算から0.015ないし0.44PPMにすぎないと推定し、極めて微量であると主張する。しかしながら、この推定は計算の基礎において誤れる前提に立つもので、求められるべき「理論値」もまた、全く事実からかけ離れるものである。すなわち、被告はこの「理論値」の算定の基礎を、被告が昭和五〇年四月二九日に測定実施したシクロヘキサノンの気中濃度に求めているのであるが、この気中濃度測定は、労働基準監督署の依頼を受けて、ドライヤー内部払拭作業開始前のドライヤー内に残存する有機溶剤蒸気の濃度を測定するために行なわれたもので、その測定に際しては、被告が計算上の理論値が極めて微量であることを裏付けようとして、「ドライヤーの払拭作業をする際には、まず塗布部において塗布作業が中断され、しかる後にフイルムの走行を停止するため、ドライヤー内部には磁性塗料の塗布されていない生のフイルムのみが存することになり、しかもドライヤーの蓋が開くまでの間にドライヤー内の空気は、瞬時に排出されてしまう」と述べている事からも明らかな様に、先ず塗布部において塗布作業を中断し、次にフイルムの走行を停止し、その後五分経過してからドライヤーの蓋を開けるという手順をとつたものであり、しかもコーター運転停止後も測定するまでの間、ドライヤー内の給排気装置が作動していたものである。しかし褜吉が勤務していた当時のドライヤー内部の払拭作業の手順は、先ずドライヤー内の給排気を停止し、次に機械の運転を停止するものであつたため、ドライヤー内に磁性塗料中の有機溶剤が蒸発して滞留しており、また機械の運転停止後もドライヤー内の給排気装置が作動するよう改善されたのは、褜吉の死後である昭和四九年五月頃であり、被告が行なつた右の気中濃度測定に際しての作業手順等とは著しく異なるものである。かかる作業手順の著しい相異、ドライヤーの給排気装置の改善等を老慮すれば、そこにおける有機溶剤蒸気の気中濃度についても著しい差異が出ることは当然であり、被告が行なつた右気中濃度測定値に比し、褜吉の勤務当時のドライヤー内の蒸気濃度の方が比較にならない程はるかに高いものであつたこともまた容易に理解しうるところである。しかるに被告は、かかる作業手順の変更、ドライヤー給排気装置の改善の経過を全く捨象し、その間にドライヤー内の有機溶剤蒸気の気中濃度値に差異はないものとの誤つた前提に立つて、褜吉の死後大幅に改善された作業環境下でのシクロヘキサノンの気中濃度測定値を基礎として、同人が勤務当時暴露したであろうジメチルホルムアミド量を算出するという誤りをおかしているのである。したがつて、被告の主張するジメチルホルムアミドの「理論値」、0.015ないし0.44PPMなる数値は、褜吉の勤務当時のジメチルホルムアミド濃度の推定値としては全く根拠のないものであり、これをもつてドライヤー開放時におけるジメチルホルムアミドの残留蒸気の吸引、暴露が極めて微量であることを論証せんとする被告の主張もまた全く根拠のないものであつて失当である。なお被告の右気中濃度測定においてジメチルホルムアミドが検知されなかつた(検知しなかつたのか、されなかつたのか不明であるが)としても、既に述べたところから明らかなように、褜吉の勤務当時のジメチルホルムアミドの吸引、暴露量が極めて微量であつたことを何ら根拠づけるものでもない。

(2) 洗い液中の含有量について

被告は、洗浄作業に用いる洗い液中にはジメチルホルムアミドは含有されていないか、仮りに含有されていたとしても検知されない程の微量である旨主張する。しかし、被告が洗浄作業に用いていた洗い液は、塗料の残りものを再製したものであるから、有機溶剤の種類も同じものであり、したがつて、磁性塗料中に含まれているジメチルホルムアミドが洗い液中にも含まれていることは明らかである。また、被告は、含有量について検知し得ない位の微量であり、現にドライヤー内部払拭作業時の気中濃度測定の結果、ジメチルホルムアミドは検知されなかつたと主張するが、右気中濃度測定において、検知しなかつたのか、検知されなかつたのか不明であるし、仮りに気中濃度が検知されなかつたとしても、これをもつて微量であると直ちに結論づけることはできない。言うまでもなく、有機溶剤の気中濃度とは、大気中に気化蒸発した有機溶剤の量を言うものであり、その濃度は同一の有機溶剤であつても温度によつて異なり、沸点に近づくにつれて高くなるものである。したがつて、成分比が全く同等の二種類の有機溶剤の混合であつても、その二種類の有機溶剤の沸点に差がある時は、その気中濃度は同等とはならない。例えば、メチルエチルケトンは沸点が八〇度(摂氏。以下同様)、シクロヘキサノンは沸点が一五六度で、気温二〇度における蒸気圧は、前者が71.2mm、後者が3.4mmであるから、両者同成分比の混合であつても、気温二〇度の場合の気中濃度は両者に大きな差異があるのであつて、特定の温度下における気中濃度量から、混合された有機溶剤の成分量についての判断をすることは到底出来ないものである。更に注意を要するのは、混合有機溶剤の場合、一つの有機溶剤の気化蒸発が、他の有機溶剤の気化蒸発に影響を与え、これを抑制する場合もあるということである。現に、本件コーター室の気中濃度測定において、使用されているはずのシクロヘキサノンが検知されなかつた例があり、これはシクロヘキサノンがメチルエチルケトンと同時に使用されていたため、沸点および蒸気圧との関係で、その蒸発が押えられたことによるのである。このような気中濃度測定に関する理解を持つならば、気中濃度測定において、ジメチルホルムアミドが検知されなかつたことをもつて洗い液中には極めて微量のジメチルホルムアミドしか含有されていない等と結論づける被告の主張は早計である。また、右気中濃度測定記録を見ると、測定時のドライヤー内温度が二八度で、機械の運転停止後、相当の時間(停止して五分三〇秒後でも三二度ある。)を経た後に行なわれたものであり、ドライヤー内温度、金属性ノズル表面温度の低下により、ジメチルホルムアミドの蒸発が起こりにくい条件でもあつたのである(ジメチルホルムアミドの沸点は一五三度、蒸気圧は二〇度で三mmHgとシクロヘキサノンの3.4mmHgよりも低い。)しかし、褜吉らがドライヤー内部払拭作業を行なうに当つては、ドライヤー停止後、直ちにドライヤーの蓋を開けて高温下で行なつていたものであるから、右気中濃度測定結果が同人らのドライヤー内部払拭作業の実態に即して行なわれたものでないことも注意さるべきである。

(3) ジメチルホルムアミドの暴露過程

ジメチルホルムアミドの大きな特徴の一つは、単に吸引のみでなく、経皮的に侵入し、全身的影響を起こしうる物質であるということである。すなわち、ジメチルホルムアミドの暴露の過程は、単に吸引だけではなく、経皮的な侵入もあるのである。ところで、本件コーターにおける作業中には、ドライヤー内部払拭作業、塗布装置洗浄作業時において、単に有機溶剤蒸気を吸引するにとどまらず、直接有機溶剤(磁性塗料、洗い液)に触れることにより、経皮的に有機溶剤が侵入する機会が極めて多かつたのである。したがつて、褜吉の場合にも、ジメチルホルムアミドの蒸気を吸引する一方、直接これに触れ、経皮的にも侵入を受け、暴露していたものである。

2  肝障害の経過について

(一) 褜吉の臨床検査所見が昭和四九年三月二七日にはほぼ正常値に近づいていることを強調し、肝障害は軽快ないし治癒しつつあつたとの被告の主張については、通常の肝炎でも治癒まではおおむね三か月前後を要し、中にはいつたん治癒したかにみえて、再燃をきたし、ついには慢性化する症例もあるし、また褜吉の場合には、剖検において高度の障害像がみられるのであるから、臨床検査所見をもつて治癒したと判断することはできないのである。

(二) 有機溶剤の代謝に対する被告の主張については、労働安全衛生法に定められている有機溶剤についても「これら五二種の溶剤の代謝はほとんどわかつていないといつてよい。」(甲第三〇号証五七九頁)のであり、「侵入した溶剤の濃度によつてはきわめて早く代謝される場合もあろうし、また非常にゆつくりして代謝される時もあろう。」(同号証同頁)と考えられているのであり、しかも、被告においては多くの有機溶剤の混合液を使用していたのであつて、こうした「混合溶剤における代謝様式の例は、労働衛生の分野では、正直なところそこまで手がまわらない。」(同号証五八三頁)のであるから、褜吉の場合暴露、吸引がなくなつたからといつて肝障害が治癒に向かつたということはできないのである。このことは、塩化ナフタリンやジフエニールのように「疾患は次第に悪化の経過をとり、二ないし三カ月以内に肝性昏睡に陥り死亡する。」(甲第二一号証一三頁)とされるものや、四塩化エタンのように「進行性に悪化してゆき、腹水を生じ、肝不全で死亡する場合もある。」(同号証一五頁)とされるもの、トリニトロトルエンのように「肝障害の徴候は何週間もの暴露の後に初めて出現するのが普通であり、」「暴露中止後数カ月たつて現われる場合もあり」、「経過は遷延」(同号証一六頁)するとされているものもある。したがつて、被告の主張は誤りである。

3  肝障害とクリプトコツカス症について

(一) 「まずクリプトコツカス症に感染し、治療中に肝障害に陥つたとする仮定」について

(1) 被告は、褜吉が「まずクリプトコツカス症に感染し、治療中に肝障害に陥つたとする仮定すら成り立つ」と主張するが発病当初の褜吉の症状は、すべてが重篤な肝障害の事実を示しており、クリプトコツカス症を疑わせる咳嗽、喀痰などの呼吸器症状も、神経症状も全く示していないし、中里医師が入院当初に行なつたレントゲン撮影の結果もOB(所見なし)なのである。したがつて、被告の主張する「まずクリプトコツカス症に感染し、治療中に肝障害に陥つた」とする具体的事実がない以上、これが全くの想像による仮定でしかあり得ないとの非難を甘受せざるを得ないものである。

(2) 被告は、「まずクリプトコツカス症に感染した」と主張する理由を述べているが、その趣旨は、褜吉の場合は原発性の慢性の髄膜炎であり、ステロイドホルモンの投与が死因であるとするようである。ところで、ここでいう「慢性」というのは、病状が急激でなく、長期間継続進行する場合であることは当然である。ところが褜吉の場合、クリプトコツカス症の症状が長期間にわたつてみられたことは全くないのであるから、これをもつて原発性の慢性のクリプトコツカス髄膜炎を肯定することはできないこと、剖検診断において「髄膜の混濁性肥厚と脳実質障害を伴なう広汎なクリプトコツカス髄膜炎」というから「クリプトコツカス髄膜炎を考える」のが妥当だという主張は、他の全身的なクリプトコツカス感染症を無視するものであること、剖検により肺や腎臓には膠様病巣ならびに肉芽腫性病巣が見られることは、「慢性病変は、その両極端として膠様病巣と肉芽腫性病変とがあげられる」と一致するという主張は、クリプトコツカス髄膜炎とは結びつかないし、末期感染の場合はこのような組織がないと断言されているのでもないこと、九五例中四五例と約半数は発症から死亡までの期間が三か月以上(どういう根拠によるか疑問がある)であるというのも、褜吉の場合は該当しないこと、更に、ステロイドホルモンの投与がクリプトコツカス症の発症の原因だとする主張についても、ステロイドホルモンは、肝障害の治療薬としてよく使用される薬であるが、褜吉の場合の使用量は多くなく、かつまた使用量は減少の傾向にあつたほか、「本症の場合、この二次感染の恐れがあつてもこのステロイド投与は絶対であり」、同人の場合にステロイド剤が「濫用」されたとはいい得ないことから、いずれも被告の主張を裏付ける根拠とはなり得ないものである。このことは、結局、褜吉は肝障害に罹らなければ、クリプトコツカス症に感染し発症することもなかつたことを意味し、同人に肝障害の原因を与えた被告の責任は、まことに重大だといわざるを得ない。したがつて、褜吉のクリプトコツカス症が原発性の髄膜炎であり、ステロイドの投与が原因であるとする被告の主張は、全くの責任回避であつて到底許されないものである。

(二) クリプトコツカス症は、続発性の真菌症と断言することも、また肝障害と有意の関係があるとすることもできないとの被告の反論については、続発性真菌症というのは、通常の健康人には起こりにくく、何らかの基礎疾患があつて、体の衰弱により抵抗力を失なつた場合に感染する真菌症である。ところで、褜吉のクリプトコツカス症が原発性か続発性かは、クリプトコツカス症の発病以前に基礎疾患があつたか、なかつたかによるのであり、同人の病状をみれば、本件が続発性のクリプトコツカス症であることは疑いを入れないところであるし、また、肝疾患は、クリプトコツカス症の基礎疾患としては白血病に次ぐ第二位の地位を占めているのである。したがつて、被告の主張は失当である。

4  肝障害の原因に対する反論について

(一) 病理学上の反論について

(1) 肝小葉中心壊死に対する被告の反論は、論旨からみて、これをウイルスからではなく、肺による酸素欠乏から説明している。しかしながら、そもそも褜吉程度の肺病変によつて、直接肝臓に剖検でみられたような激烈な壊死が起こることはあり得ないから、同人に被告の主張するような、いかなる「伝染性中毒性疾患」、「シヨツク状態を伴う疾患」、「急性貧血症」があつたのか、或いはいかなる「うつ血」や「貧血」があつたかを、被告は病名を付して具体的に指摘する必要があろう。仮に、褜吉の肝小葉中心壊死が肺に由来するものであるならば、この肺疾患は死の直前であるから、その障害は極めて新しいものでなければならないことになるが、これは、障害がきのう、おととい起つたというものではなかつたことからも、とうてい納得できる主張とは言えない。また、酸素欠乏による中心壊死の場合は、脂肪化を伴うことが多いにもかかわらず、褜吉の肝臓には脂肪化は全く見られないし、更に、重篤な肺疾患は、何よりも心臓に対して影響を与えるのが普通であり、肺疾患が直接肝臓に、しかも褜吉の場合のような激烈な壊死をひき起こすことはないのである。肺病変により褜吉の場合のような重度の肝障害が起こるのは、心不全を伴つた結果であるのが通常であるが、同人の解剖所見としては心不全はなかつたものである。したがつて、褜吉の肝小葉中心壊死が酸素欠乏によるものとする被告の主張は失当である。

(2) 炎症所見に対する被告の反論は、ウイルス性肝炎の場合でも、解剖に付された時点では、もはや炎症はほとんど終熄していても怪しむに足りないと主張している。しかしながら、肝炎のうちでも治癒しやすいとされている通常の急性肝炎の場合、その治癒には二、三か月を要し、完全に治癒したと判断されるためには、その後三か月程度の観察を要するとされ、とりわけグリソンへ出る細胞侵潤というものは、外のことがすべて良くなつて一番最後に残るものであるから、解剖時点においては必ず炎症所見が存在しなければ医学常識に符合しないのであり、褜吉の場合のように、強い肝細胞の壊死が見られるのは「回復期」以前の状態であるから、そこには種々の炎症所見が見られなければならないのであり、被告の主張は合理性がないといわなければならないのである。

(3) 被告は、「原告は、ウイルス性肝炎を否定する根拠として、ウイルス性肝炎の場合にしか見られない所見と称して六点あげる。」と主張するが、原告は、そのような主張をしているのではなく、「ウイルスによる肝障害の場合に見られる所見」として六点あげているのであつて、ウイルス性肝炎であれば当然に見られるはずの所見を示し、これらの所見が褜吉の肝臓には見られないから、ウイルス性肝炎は否定できると述べているのである。したがつて、これらの所見が、他の肝障害においても見られるとの被告の反論は全く意味をなさないのである。

第三  証拠<略>

理由

一請求原因1の事実、同2(一)の事実中、褜吉が宮城県工業技術公共職業訓練所を修了(宮城県農業高等学校を中退)したこと、昭和三九年原告サカエと婚姻し、その後二児(原告由美子、同健一)をもうけたこと、昭和四八年四月被告の有期雇用者採用試験を受け、合格したこと、同2(二)の事実中、「大量の」を除くその余の事実、同2(三)の事実中、褜吉に従来飲酒の慣行があつたこと、褜吉が塩釜掖済会病院に入院し、昭和四九年四月二四日午後五時四五分死亡したこと、同5(一)の事実中、労働安全衛生法、同法施行令、労働安全衛生規則、有機溶剤中毒予防規則等の条項のうち原告の主張する各条項が事業者一般に対し、事業場の安全衛生に必要な義務を定めていること、同5(二)の事実中、褜吉が被告に勤務していた頃、訴外北村尚三、同岩下克之、同安藤晋一、同降矢光正、同中津留聡が、それぞれ原告主張のような役職に就いていたこと、同6の事実中、褜吉が死亡当時三五歳であつたこと、原告らが原告訴訟代理人らに訴訟委任したこと等については、いずれも当事者間に争いがない。

二褜吉と被告との関係

1  褜吉の被告への就職

<証拠>によれば、褜吉はかねて電話の配線工として東北各地に出張し、家を留守にすることが多く、自宅から通える大きな会社に入りたいと考えていたことや、原告由美子が小学校に入学することもあつて父親がそばにいて教育する必要があつたこともあり、たまたま被告の従業員募集の広告を見てこれに応募し、前記のとおり採用試験に合格したこと、被告の採用試験においては男子の受験者が三〇名であり、このうち八名が合格したものであることが認められる。

2  被告・褜吉間の労働契約

当事者間に争いのない事実並びに<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  褜吉は、昭和四八年四月二〇日、被告との間で雇用契約を締結し、期間を同日から同年九月一九日までとするアシスタント要員と呼ばれる有期雇用者として採用され、その後、右雇用契約は同年九月二〇日から昭和四九年三月一九日までと、同月二〇日から同年四月一九日までとする、いずれもアシスタントと呼ばれる有期雇用者として契約期間を更新した。

(二)  褜吉の勤務形態は、昼間勤務(定時勤務)と夜間勤務(みなす勤務)とに分かれ、昼間勤務の勤務時間は午前八時三〇分から午後五時までで、その間午前一一時三〇分から同一二時二〇分までと午後三時から同三時一〇分まで休憩時間があり、夜間勤務の勤務時間は午後四時三〇分から翌日午前九時までで、その間午後五時三〇分から同六時一〇分までと翌日午前二時から同四時まで休憩時間がある。また、褜吉が入社した頃から同年六月頃までは二グループであつたが、その後三名を一グループとして三グループで右勤務形態に添つて勤務するようになつた。すなわち、まず昼間勤務に就くと翌日は夜間勤務に就き、翌朝九時に勤務を終了するとその日は休み(みなす明け)となり、次の日は昼間勤務に就くというもので、これを三グループが交替で行なつていた。なお褜吉の属するグループは昭和四八年六月頃から同年九月末頃まで二瓶信幸をリーダーとして、巻取を星光男が担当し、同年一〇月上旬頃から同年一二月末頃まで佐竹正敏をリーダーとして、巻取を郷古敏雄が担当し、昭和四九年一月上旬頃から同年二月九日まで小野安雄をリーダーとして、巻取を月館義隆が担当し、褜吉はいずれも巻出を担当していた。

(三)  褜吉の右雇用契約における賃金額は、当初のアシスタント要員のときが作業給(時間給)三三一円と皆勤手当(週)一二四二円とが支給され、次のアシスタントとしての昭和四八年九月二〇日から昭和四九年三月一九日までの賃金は固定給(月額)一万円、作業給(時間給)二七五円、皆勤手当(週)一二五八円が支給され、さらに同年三月二〇日から同年四月一九日までの賃金は固定給(月額)一万四〇〇〇円、作業給(時間給)三一二円、皆勤手当(週)一〇〇〇円が支給されていた。

(四)  褜吉の仕事の内容は、採用になると直ちにテープ部門製造第一課塗布工程七三Bコーター室に設置されていた本件コーター巻出部の担当となつたもので、この巻出部の仕事は磁気テープのもととなるプラスチツクフイルムを倉庫から運び、これをドライヤー下部のベースストツカーに収納し、さらにこれを順次取り出して巻出機に装置し、巻出中のロールから新しいロールに連続して繋ぐ作業と、運転中これを監視することとが主なものであり、このほか塗布されたフイルムを乾燥させる機械であるドライヤー内部の払拭作業とか、リーダーを補助して行なう塗布装置の洗浄作業もその内容となつていた。

ところで、原告らは褜吉は塗布装置の洗浄のほか、リーダーを補助して右装置の調整をも行なつていた旨主張するが、右主張を認めるに足る証拠はない。

3  褜吉の健康状態

<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  褜吉は、学生時代に陸上部の選手やクラブ活動で柔道をする等健康体であり、被告に採用されるまでこれといつた病気をしたこともなく、被告の採用試験に際して行なわれた健康診断においても異常は認められず、また昭和四八年五月八日の有機溶剤取扱者を対象とした特殊健康診断(なお、褜吉の在勤中はこの時のみであつた。)並びに同年六月一九日に実施された一般健康診断においても、特に異常は認められなかつた。

(二)  褜吉は、本件コーター担当として勤務中であつた昭和四八年秋頃手に湿疹の出たことがあり、また昭和四九年一月三日に新年会から帰つて嘔吐し、それ以降五勺ないし休みの前日には二合位飲んでいた酒も飲まなくなり、さらに同月中旬頃背中に発疹が出たことがあつた。

(三)  褜吉は、昭和四九年二月八日夜間勤務から帰宅すると、寒気と頭痛を訴え、夕方には眠気や食欲不振をも訴えるようになり、翌九日起床した際にも頭痛や目まい等を訴えていた。そして同月一〇日朝黄疸となつていることに気付いたが、あいにく当日と一一日とは休日であつたため、診察を受けることができずに家で休み、同月一二日に近所の佐藤医院に行つて診察を受けたところ急性肝炎と診断され、同医院より塩釜掖済会病院を紹介されたので、同日午後同病院に行つて診察を受けたところ、同じく急性肝炎と診断された。

(四)  褜吉は、被告に入社してから右急性肝炎と診断されて入院するまで、一度も欠勤したことはなかつた。

三本件作業場の環境

1  本件コーターの設置および機能等

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

本件コーターは、プラスチツクフイルムに磁性塗料を塗布する機械であり、昭和四八年一月から三月までの間に搬入、・組立・据付・調整をなし、同年四月頃から試運転およびトレーニング塗布を開始し、同年六月頃から準生産活動に入り、同年八月頃から本格生産に入つたもので、巻出部、塗布部、乾燥部、巻取部からなり、このうち作業員は巻出部、塗布部、巻取部に配属され、乾燥部には配属されていない。なお、塗布部は当該グループのリーダーが受け持つこととなつていた。本件コーターの巻出部は、フイルムロールをベースストツカーから取り出して巻出機に装置し、巻出中のロールから新しいロールに自動的に連続して繋ぐ装置であり、塗布部は巻出機から送られてきたフイルムに磁性塗料を均一に塗布するための装置であり、乾燥部はフイルムの上に数ミクロンの厚さに塗布された磁性塗料を、フイルムが長尺矩形筒形のドライヤー内を走行する間に乾燥させるための装置であり、巻取部は乾燥されたフイルムをロールに巻き取り、新しい芯ロールに自動的に連続的に巻き取る装置である。

2  使用有機溶剤および毒性等

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一)  本件作業場には、本件コーターのほか四二号コーターも設置され、同コーターも磁性塗料を使用しているが、本件コーターにおいて昭和四九年二月当時使用されていた磁性塗料の成分および重量比については別表(三)記載のとおりであり、その使用量は毎時82.5キログラムであつて、一か月間では四万一五八〇キログラムであり、これに四二号コーターをも含めると、本件作業場での一か月間における使用量は四万五五四〇キログラムにも及んでいた。

(二)  本件作業場においては、本件コーターのドライヤー内払拭作業や塗布室のカツプロール、受皿等の洗浄作業においても、洗い液として有機溶剤が使用されており、この洗い液は各コーターにおいて使用された磁性塗料の発液を再製したものであるから、有機溶剤一〇〇パーセントのものであつて、その部分は各コーターにおいて使用されている有機溶剤とほぼ同一のものであるが、これにメチルエチルケトンを補充するため、その比率はおおむねメチルエチルケトン五〇ないし五五パーセント、トルエン四二ないし四七パーセント、シクロヘキサノン三パーセント等であつた。

(三)  本件作業場で使用している磁性塗料や洗い液に含まれている有機溶剤は、メチルエチルケトン、シクロヘキサノン、トルエン、ジメチルホルムアミドであるが、このほか昭和四八年一二月に磁性塗料の成分を変更するまでイソプロピルアルコールやメチルイソブチルケトンも使用されていたもので、これらのうちジメチルホルムアミドを除いた有機溶剤は、いずれも予防規則において第二種の有機溶剤とされているものである。

(四)  本件作業場で使用している有機溶剤は、それぞれ人体に対し種々の毒性を有するものであつて、強弱の程度に差があるにせよメチルエチルケトンについては麻酔、皮膚粘膜に、シクロヘキサノンについては麻酔、皮膚粘膜、肝臓、腎臓に、トルエンについては麻酔、皮膚粘膜、頭痛、目まい、肝臓、腎臓、血液に、ジメチルホルムアミドについては皮膚粘膜、肝臓、腎臓に、イソプロピルアルコールについては麻酔、皮膚粘膜、吐き気、肝臓、腎臓に、メチルイソブチルケトンについては麻酔、皮膚粘膜、肝臓に、それぞれ毒性を有するとされており、特にジメチルホルムアミドの肝臓に対する毒性は極めて強いとされている。また昭和三二年から昭和四一年一月までについて都道府県労働基準局より報告された有機溶剤中毒症例中には、トルエンによる中毒として貧血、皮膚炎、慢性肝障害が、メチルエチルケトンによる中毒として寒気、頭痛、腱反射亢進、眼結膜充血がそれぞれ報告されている。なお、有機溶剤に対する感受性には個人差があり、右に指摘した他の臓器を障害する可能性は否定されないともされている。

ところで、原告らは、被告の使用している有機溶剤のうちトルエンについて、一般に溶剤として使用されているものは純度九〇パーセントのものか六〇パーセントのものであり、そうとすればトルエン中には前者で一ないし五パーセント、後者で一〇ないし三〇パーセントのベンゼンが含まれており、仮に純トルオールが使用されていたとしても0.4ないし一パーセントのベンゼンが含まれている旨主張し、ベンゼンの含有量についてこれに添う甲第二二四号証もあるが、その方式および趣旨によつて真正に成立したものと認められる乙第三一号証の一ないし三、証人岩下克之の証言によれば、被告が使用しているトルエンは純トルエン一号であつて、その比率はトルエン99.93パーセント、ベンゼン0.01パーセント、キシロール0.05パーセント、パラフイン0.01パーセントであることが認められるから、原告らの右主張は採用できない。

3  本件作業場の給・排気装置

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一)  本件作業場における給・排気装置については、本件コーター設置時に、全体給気装置として、本件コーターと四二号コーターの中間にスリツト型吹出口一二個が、四二号コーター壁側に同二個が、局所給気装置として、本件コーター塗布室にフイルター組込吹出口六個が、また、全体排気装置として、本件コーターのドライヤーと東側壁の間にスリツト型吸込口四個が、局所排気装置として、右塗布室に下方型フード二個と四二号コーター塗布部に天蓋型フード一個が、それぞれ設置されていた。なお、ドライヤーには専用の局所給・排気装置が設置されていた。

(二)  被告は、本件作業場について、昭和四八年五月に本件コーターのドライヤーと塗布室の間に天蓋型フードの局所排気装置を設置し、同年七月にこれを囲い型に変更し、同年八月に全体排気系ダクトを変更し、昭和四九年四月に四二号コーター塗布部の局所排気装置を天蓋型より囲い型に変更し、同年五月に右ドライヤーの排気系を単独操作し得るように変更し、同年七月に塗布室に局所排気装置として天蓋型フードを設置し、同年一〇月に本件作業場を拡張し、同年一一月に塗布室内の塗布機に囲いを設置する等、本件作業場の環境改善を行なつた。なお、四二号コーターは同年一一月に撤去され、その後の昭和五〇年三月に七五号コーターが設置されたが、その際全体給・排気装置等に変更が加えられた。

4  通常運転時の本件作業場の環境

<証拠>によれば次の事実が認められる。

(一)  ドライヤーからの有機溶剤蒸気の漏出については、通常運転中には内部が作業場より減圧されていることから漏出することはないが、ドライヤー内の給気と排気のバランスが崩れ、内部が加圧状態となつたときとか、ドライヤー開閉部分の接触面に隙間ができたとき等に、ドライヤー内の蒸気が作業場に漏出し、強い有機溶剤の臭気を放つていたことがあつた。

(二)  塗布室からの有機溶剤蒸気の漏出については、通常運転作業中に最も有機溶剤の臭いのする場所は塗布室であつたが、塗布室には作業者は常置しておらず、また本件作業場とは別個の部屋になつており、同室専用の局所排気装置もあつて室内が減圧されていることから、通常運転作業中に作業場に漏出してくることはなかつた。

(三)  塗布室からドライヤーに至る間からの有機溶剤蒸気の漏出については、本件コーターの設置当初、この間を磁性塗料を塗布されたテープが剥き出しのまま走行していたことがあり、この間を囲い型の局所排気装置に改善するまで、強い有機溶剤の臭気が巻出部付近にしていたことがあつた。

(四)  昭和四八年の夏頃、本件作業場において普段よりも強い有機溶剤の臭いがしたため、同年の夏期休暇中に、巻出部付近の臭気対策工事をしたが、これをもつてしてもいまだ完全とはいえず、右臭気対策のため、本件コーターの排気を強力にする必要があるとされ、同年八月頃排気系統の改善がなされた。

(五)  本件作業場で勤務していた従業員が、通常運転作業中有機溶剤の臭気を感じたのは、右の(一)ないし(四)に記した場合であり、そのほかにはほとんど臭気を感じていなかつた。

(六)  褜吉の勤務していた当時、本件作業場において、昭和四八年一〇月八日と同年一二月七日に有機溶剤の気中濃度が測定されているが、その測定結果については別表(二)記載のとおりであつた。なお、同年七月二三日にも測定を試みたが失敗に終つている。また、本件作業場において使用されている各種有機溶剤について、日本産業衛生学会で定めている許容濃度は、メチルエチルケトン二〇〇PPM、シクロヘキサノン二五PPM、トルエン一〇〇PPM、ジメチルホルムアミド一〇PPM、イソプロピルアルコール四〇〇PPM、メチルイソブチルケトン一〇〇PPMとされている。

右認定に反する原告サカエ本人尋問の結果は、前掲各証拠に照らし採用できない。

右認定事実によれば、本件作業場においては、本件コーターが設置されて後、コーターの故障や排気設備の不完全等から、有機溶剤の蒸気が室内に立ち込めたこともあつたが、右故障の修理や設備の改善後により、昭和四八年の夏期休暇後頃には右の状態もほぼ改善されたものであり、このことは同年一〇月および一二月の各濃度測定の結果が許容濃度を大幅に下回つていることからも窺い知り得るところである。したがつて、通常運転時の本件作業場の環境は、右の夏期休暇後頃からは一応良好であつたといえるものである。

ところで、原告らは、本件コーター巻出部付近は、①本件コーター塗布室、②同ドライヤー、③四二号コーターから、それぞれ発生する有機溶剤の蒸気が絶えず多量に流入し滞留するため、褜吉は巻出業務に従事中、多量の有機溶剤蒸気を吸引していた旨主張するが、右に述べたように、一時期において①および②との関係で有機溶剤蒸気が室内に立ち込めたことが認められるとしても、その状態が絶えず続いていたものと認めるに足る証拠はなく、また、ドライヤー点検孔にテープが貼布されていたのも、ドライヤー内は通常減圧されていることから、有機溶剤蒸気の漏出を防ぐためとは認められず、同所から蒸気の漏出していたことを認めるに足る証拠もない。さらに、③の四二号コーターについても、同コーターが前記のとおり有機溶剤を用いた塗布機であることから、有機溶剤蒸気の発生があつたものと推認はし得るが、それが巻出部付近に絶えず多量に流入し滞留していたことまでをも認めるに足る証拠もない。したがつて、褜吉が巻出業務に従事中多量の有機溶剤蒸気を吸引していた旨の原告らの主張は採用することができない。

5  ドライヤーの開放および払拭作業における環境

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一)  ドライヤーの開放は、休憩の際に運転を停めてドライヤーを開放する通常の場合のほか、フイルムの片伸びによつてフイルムがドライヤー内で振動し或いはフイルムの張力が変わつたためにフイルムの走行が不安定となり、このためフイルムの表面に塗布されている磁性塗料がドライヤー内上部のノズル部分に付着し、これが固まつて走行するフイルム表面に傷をつけるときとか、フイルムの糊付け不完全のため、その部分がドライヤー内で剥がれてしまい、これを巻取部まで手送りしてやるとき等に開放する故障の場合とがある。

(二)  ドライヤーの払拭作業は、ドライヤー内のノズルに塗料が付着すると、これが固まり、ドライヤー内を走行するフイルムに傷をつけ、そのため製品が不良品となるのを防ぐためにするものであつて、休憩の際の開放の場合には、ノズルに塗料が付着している場合のみ払拭作業を行ない、常に右作業をするわけではない。なおその作業者は特に定められているわけではなく、グループの三名がそれぞれ従事することになつていた。

(三)  故障によつてドライヤーを開放し、ドライヤー内部を払拭する回数は一勤務に平均三回から五回であり、その所要時間は一回について平均二分から五分位である。

(四)  払拭作業の作業手順は、まずドライヤー内の給・排気装置を停止し、次いで機械の運転を停止させ、そのうえでドライヤーの蓋を開け、ゴム手袋をしたうえでウエスに洗い液である有機溶剤を侵し、内部の磁性塗料付着部分を拭くというものであるが、ドライヤーを開放すると内部の温度は摂氏三〇度前後に低下するものの、金属部分は払拭作業時でも相当に熱く、このためウエスに染み込んだ洗い液が拭く際に多く蒸発して強い臭気を放つため、作業者の中には顔をそむけて腕だけをドライヤー内に差し込んだり、息を殺したりして作業をしていた者も多く見られた。

(五)  褜吉も右作業に従事していたものであるが、前記した二瓶や星とグループを組んでいた時は主に星が払拭作業の担当となつていたが、褜吉もよく右の作業をしていたものであり、また佐竹や郷古とグループを組んでいた時は褜吉と郷古が主に払拭作業をしていたもので、さらに小野や月館とグループを組んでいた時は褜吉と小野が主に右作業をしていたものであつて、褜吉は真面目で几張面な性格の持ち主であつたことから、右作業に際してもドライヤー内に顔を入れて丁寧に払いていた。

(六)  被告において昭和五〇年五月八日に実施した「七三Bコーター払拭作業時の有機溶剤蒸気濃度」の測定結果によれば、作業者の顔面から一〇ないし一五センチメートル離れた所で、まず、ドライヤーの中に顔を入れた場合には、いずれもドライヤー内の、①塗布部に最も近い所から巻取部に向つて1.5メートル付近では、メチルエチルケトンが六四〇PPM、トルエン463.5PPM、シクロヘキサノン五PPMであり、②右①からさらに巻取部に向つて1.2メートル付近では、メチルエチルケトン592.6PPM、トルエン284.7PPM、シクロヘキサノン2.5PPMであり、③右①から巻取部に向つて2.275メートル付近では、メチルエチルケトン二三七PPM、トルエン136.6PPM、シクロヘキサノン2.2PPMであり、④右③から巻取部に向つて1.2メートル付近では、メチルエチルケトン71.1PPM、トルエン四〇PPM、シクロヘキサノン1.6PPMである。次にドライヤーの外に顔を出していた場合には、①と同じ距離では、メチルエチルケトン210.4PPM、トルエン211.8PPM、シクロヘキサノン3.8PPMであり、②と同じ距離では、メチルエチルケトン5.9PPM、トルエン4.1PPM、シクロヘキサノン〇PPMであり、③と同じ距離では、メチルエチルケトン15.6PPM、トルエン7.1PPM、シクロヘキサノン〇PPMであり、④と同じ距離では、メチルエチルケトン5.9PPM、トルエン6.8PPM、シクロヘキサノン〇PPMである。なお、右①から④の場合では①で、右からの場合はで、それぞれ払拭作業のためウエスに溶剤を侵したものである。このように、極めて高い値が示されているのは、ウエスに含まれている有機溶剤が蒸気となつて多量に蒸発するからである。

(七)  被告において昭和五〇年四月二九日に実施した「七三Bコータードライヤー開放時(払拭作業開始直前)の残留有機溶剤蒸気濃度」の測定結果によれば、いずれもドライヤー内で、①塗布部に最も近い所から巻取部に向つて1.5メートル付近では、メチルエチルケトン16.3PPM、トルエン11.7PPM、シクロヘキサノン0.9PPMであり、②右①付近では、メチルエチルケトン42.3PPM、トルエン25.1PPM、シクロヘキサノン1.1PPMであり、③右①から巻取部に向つて2.275メートル付近では、メチルエチルケトン14.7PPM、トルエン10.6PPM、シクロヘキサノン0.1PPMである。このように、残存有機溶剤蒸気が少ない値を示しているのは、ドライヤー内の蒸気が開放前に局所排気装置の作動によつて強制的に排出されてしまつているからである。

右認定事実によれば、ドライヤーを開放した際、残留有機溶剤蒸気の存することは(七)の認定によつて明らかであり、褜吉らが払拭作業等でドライヤーを開放したとき、右蒸気に暴露しこれを吸引することは認められるものの、その量は(七)認定のように前記日本産業衛生学会の許容濃度に比し極めて少ないものであることが認められる。

しかしながら、他方、褜吉はドライヤー払拭作業に従事する機会が多く、この作業における有機溶剤蒸気の気中濃度は、(六)認定の濃度測定結果に示されているとおりであり、これを前記許容濃度に対比してみると、①ないし③の場所においてはメチルエチルケトンおよびトルエンの濃度が右許容量よりも高い数値を示しており、特に①と②の場所におけるそれは極めて高い数値を示しているのである。ところで、褜吉は右の作業のときは顔をドライヤー内に入れて丁寧に払拭作業を行なつていたのであるから、同人が右作業の際、右高濃度の蒸気にそのまま暴露し、これを少なからず吸引していたことは十分に考えられるところである。なお右の払拭作業の際の濃度測定においては、ジメチルホルムアミドは検出されていないが、洗い液の成分が前記のように本件コーターで使用されている有機溶剤とほぼ同一のものであることからみれば、右のジメチルホルムアミドについても多少の暴露・吸引があつたことは推認し得るところである。

ところで、ドライヤーを開放した際に、原告らは、ドライヤー内に多量の有機溶剤蒸気が残存していた旨主張し、これに添う原告サカエ本人尋問の結果もあるが、前掲各証拠に照らし採用し得ず、他に右主張を認めるに足る証拠はない。他方、被告はドライヤー内の蒸気は瞬時に強制排気されてしまうから、残存有機溶剤蒸気は存しないと主張し、これに添う乙第二〇号証および証人岩下克之の証言もあるが、乙第二〇号証は昭和五一年三月五日に測定されたものであり、その際ドライヤー開放を褜吉の勤務当時と同様の状況にして測定したものであるとしても、作業場の環境も当時と相当に異なつており、これよりもより当時の作業状況に合致するものと認められる前掲甲第四六号証に照らすと、乙第二〇号証および証人岩下克之の証言は採用し得ず、他に右主張を認めるに足る証拠はない。以上のように、右の原告らおよび被告の各主張はいずれも失当というべきである。

また、被告は、ドライヤー払拭作業の際の作業者の口元における有機溶剤蒸気の濃度はそれほど高いものとはいえず、右作業もドライヤーを開放すると常にするわけではなく、開放回数も一勤務中平均1.9回に過ぎないのであるから、実際の作業回数はこれよりももつと少なくなるし、作業時間も僅か数分で済むのであるから問題とする必要はない旨主張し、これに添う乙第一九号証および証人安藤普一の証言もあるが、これらは前掲採用の各証拠に照らして採用し得ないし、他に右主張を認めるに足る証拠もないから、被告の右主張は失当というべきである。

6  塗布室の環境

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一)  塗布室には下方型の局所排気装置が設けられていたほか、通常塗布作業がなされている時は、塗布室に作業員は立ち入ることがない。

(二)  塗布装置の洗浄作業は機械を停止した後、磁性塗料の付着しているカツプロール、ガイドロール、フイルター、受皿等を、ゴム手袋をしたうえ、有機溶剤の洗い液を用いて洗浄するもので、ドライヤー払拭作業の次に有機溶剤の臭いのするのがこの作業時であつて、洗浄作業は夜間勤務における仮眠前と塗料を切り替える時に行ない、塗料の切替は週二回位であり、これら洗浄作業に要する時間は一回二〇分位であつた。

(三)  塗布装置の調整作業は、フイルムの形状に異状があつて塗布がうまくいかない場合等にするもので、一回の勤務中少なくとも二回から三回はあり、機械の調子の良い場合と悪い場合とで異なり、その所要時間も一回一〇分から二〇分かかることもあれば、一分位で終了することもあつた。

(四)  塗布装置の洗浄や調整作業は、主にグループリーダーの担当であつたが、褜吉はリーダーの補助者をしていたことから、これらの作業のうち洗浄作業を手伝つていたもので、同人はその際塗布装置に顔を近づけて作業していた。

(五)  塗布室内の有機溶剤気中濃度の測定結果については、昭和四八年一二月七日に実施されたものが、①塗布面作業者位置で、メチルエチルケトン6.92PPM、トルエン0.16PPMであり、②塗布室コーナーで、メチルイソプロピルアルコール0.14PPM、メチルエチルケトン1.2PPM、メチルイソブチルケトン0.13PPM、トルエン0.91PPMであり、右いずれの場所からも使用されているシクロヘキサノンが検出されていないが、これはメチルエチルケトンと同時に使用されていたため、沸点および蒸気圧との関係で、その蒸発が押えられたものと思われるとされ、また昭和四九年五月二四日に実施されたものが、①スムーザー部床上1.2メートルの所で、メチルエチルケトン50.46PPM、トルエン6.2PPM、シクロヘキサノン2.02PPMであり、②同床上三〇センチメートルの所で、メチルエチルケトン317.02PPM、トルエン50.6PPM、シクロヘキサノン2.2PPMであり、③キヤーポンプ操作盤床上1.2メートルの所で、メチルエチルケトン4.27PPM、トルエン1.37PPMであるとされている。

右認定事実によれば、塗布室内の作業環境は、前記本件作業場の通常運転時の環境に比し、濃度測定結果が高い数値を示していることから、同所よりも良い環境でないことは知り得るが、右の数値は、スムーザー部床上三〇センチメートルにおけるものが比較的高い数値(メチルエチルケトンのみ許容濃度を超えている。)を示しているものの、他はいずれも許容濃度を大幅に下回つていることから、それほど悪い環境ということもできないのである。ただ、塗布装置の洗浄作業においては、濃度測定の結果はないものの、作業員らがいずれもドライヤー払拭作業の次に有機溶剤の臭いのするのが、右の洗浄作業であると述べているところから、洗浄作業の際には、ドライヤー払拭作業におけるほどではないにしろ、有機溶剤の蒸気が相当に発生していたものと認められ、したがつて、作業環境も決して良いものであつたとはいえないし、褜吉が洗浄作業のとき、装置に顔を近づけてこれを行なつていたというのであるから、同人が右の蒸気に暴露・吸引する量は他の従業員に比して多かつたものといえるのである。

ところで、原告らは、塗布室内においては絶えず高濃度の有機溶剤蒸気が充満していた旨主張するが、右主張を認めるに足る諸拠はなく、前掲各証拠によれば、塗布室内の濃度はそれほど高濃度ではなかつたことが認められるのであるから、右主張は失当である。

四被告の安全保護義務

1  被告の安全衛生活動

<証拠>によれば、本件作業場における被告の安全衛生活動については、被告主張4(一)(1)記載のとおりであること、被告における安全衛生事務は、褜吉の在勤中、総務部門の環境・管理を相当する係(昭和四九年四月二〇日から「安全衛生グループ」と名称を変更した)が具体的に行なつていたものであるが、同係の専任担当者は一名(昭和四九年二月に一名増員された。)しか配置されていなかつたことから、具体的な労働者の安全衛生に関する活動、例えば有機溶剤の濃度測定とか有機溶剤取扱者を対象とした特殊健康診断等の計画・実行に支障をきたしていたことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

2  褜吉に対する安全衛生教育

<証拠>によれば、褜吉は、入社当日の午前中に同日入社した人達と一緒に、被告総務課係員から会社の概要、就業規則の内容、有期雇用契約の内容等について、一般的な説明を受け、午後からは工場見学の前に、同じ塗布工程に配属された四名の人と共に、配属先の班長から製造第一課内の組織工程、製造品、火災関係、有機溶剤取扱上の注意、塗布工程、勤務形態等について説明を受け、その際有機溶剤の毒性や防害マスク等保護具の使用方法についても説明を受けたほか、その場において使用されている有機溶剤を用いて臭覚テストも行なわれ、配属された四名のうち一名が有機溶剤の臭いがしなかつたということから、塗布工程には不適格であるとして他の職場に配置替えとされる等、入社時の安全衛生教育を受けたこと、本件コーター配属後、職場のリーダーが各装置の取扱方法とか知識について教育を行なつたこと、しかし防毒マスク等保護具の使用については右班長やその上司である製造第一課長らは右のような一般的な教育は行なつたものの、作業員個々人のドライヤー払拭作業等具体的作業に際してはこれを使用する必要がないと考えていたため、何ら教育を行なつていないことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

被告は、防毒マスクの使用を指示していた旨主張するが、現場で直接作業していた従業員が右指示を受けていたことを認めるに足る証拠はない。

3  有機溶剤蒸気の濃度測定

本件作業場には本件コーター設置前から塗布機四二号コーターが設置され操業していたこと、本件コーターも昭和四八年四月頃からトレーニング塗布を開始したこと、被告が褜吉の勤務中(昭和四八年四月二〇日から昭和四九年二月九日まで)本件作業場で有機溶剤蒸気の気中濃度測定を行ない、その結果まで出すことができたのは昭和四八年一〇月八日と同年一二月七日の二回であつたこと、なお同年七月二三日にも測定を試みたが失敗したことは、前記認定のとおりである。

ところで、予防規則二八条二項によれば、本件のような作業場においては三か月以内ごとに一回、定期に、有機溶剤(少なくともトルエンについて)の濃度測定をしなければならないとされている。これを褜吉の勤務中についてみれば、本件作業場においては同人の勤務当初より有機溶剤が使用されていたのであり、同人は昭和四八年四月二〇日から本件作業場に勤務していたのであるから、少なくとも同年七月二〇日までには一回測定されるべきであつたのに、同日を越えた同月二三日に測定をなし、これが失敗に終つても、ただちに測定をすることもなく、同年一〇月八日まで放置しておいたものである。証人安藤晋一の証言によれば、特に七月頃は普段よりも有機溶剤の臭いがしていたので、部下に命じて測定させたものであることが認められ、これに規則の定める期間を越えた後の測定であることを考慮すれば、はたして右規則に従つた測定を意図してなしたものであるか否かも疑わしいが、いずれにしろ、その頃の本件作業場の環境は必ずしも良くなかつたのであるから、被告の濃度測定を実施しなかつた義務違反は大きいというべきである。したがつて、被告の予防規則二八条二項の義務違反は明らかである。

4  特殊健康診断

被告が褜吉の勤務中(昭和四八年四月二〇日から昭和四九年二月九日まで)有機溶剤取扱者を対象とした特殊健康診断を実施したのは、昭和四八年五月八日一回のみであり、このほか実施がなされなかつたものであることは、前記認定のとおりである。

ところで、予防規則二九条二項によれば、本件のような作業場における業務に常時労働者を従事させる場合には、雇入れの際、当該業務への配置替えの際およびその後六月以内ごとに一回、定期に、医師によるいわゆる特殊健康診断を行なわなければならないとされている。これを本件についてみれば、被告においては昭和四八年五月八日に実施後、少なくとも同年一一月八日までにはこれが実施をなさなければならなかつたものである。被告は、同年一一月頃特殊健康診断を実施すべく、以前から依頼していた医療機関にその実施を依頼したところ、同機関の都合によつて昭和四九年五月一三日まで遅れてしまつたもので、右実施の遅れは、被告の責任ではなく、医療体制の問題である旨主張する。しかしながら、前掲甲第一四四号証によれば、被告の安全衛生担当者は右規則による六か月以内に一回実施すべきことはわかつていたが、右実施の依頼を昭和四八年一〇月頃にしたため、年内実施を断わられたものであることが認められる。してみると、被告としては、六か月以内に一回実施すべきことはわかつていたのであるから、同年五月の実施を依頼する際に、それ以降の分についても依頼しておくか、少なくとも同年五月八日に実施した際、次回の実施を依頼する等の処置がとられるべきであつたのに、同年一〇月頃になつてからこれが依頼をなし、これを断わられたからといつて、その責任を医療体制の問題に置きかえることは許されないというべきである。特に、褜吉は同年秋頃体に発疹の出たことがあり、また特殊健康診断の実施を予定されていた三か月後に発病していることは前記認定のとおりであり、さらに、成立に争いのない甲第五七号証および証人降矢光正の証言によつて真正に成立したものと認める乙第二六号証によれば、その後実施された昭和四九年五月の特殊健康診断においては有機溶剤による肝機能に治療を要するとの有所見者二名が、また同年一一月のそれでは有機溶剤による肝機能に管理を要するとの有所見者が二名が、それぞれ報告されているのであるから、被告が特殊健康診断を予定どおり実施していれば、褜吉の体の何らかの異常を発見し得た可能性も否定し得ないところである。したがつて、被告の予防規則二九条二項の義務違反は明らかである。

5  ホースマスク等保護具の使用

(一)  本件作業場には全体給・排気装置およびドライヤーや塗布室等に局所排気装置が設置されていたこと、褜吉の昼間勤務における一日当りの実働時間は七時間三〇分であつたこと、ドライヤー払拭作業の回数が一勤務三回から五回であつたことは、前記認定のとおりである。

(二)  <証拠>によれば、本件作業場は、南側中央に出入口が設けられ、北側の塗布室と四二号コーター側からそれぞれフイルター室に抜ける各出入口が設けられているが、これら各出入口は通常閉じられているものであり、右各出入口を除くと四方を壁に囲まれ、外部と遮断された部屋であつたこと、本件作業場の気積は、塗布室を除いた部分が890.27立方メートルであつたこと、褜吉の在勤中、本件コーターにおける磁性塗料の使用量は漸増されていつたものであり、昭和四八年八月当時の一時間当りの使用量が56.4キログラムで、褜吉が入院した昭和四九年二月当時のそれが82.5キログラムであつたものであり、またこれら磁性塗料中には第二種有機溶剤が少なくとも六一パーセントも含まれていたものであること、ドライヤー払拭作業に使用する洗い液の一回当りの使用量は約六〇グラムであること、本件作業場に勤務していた多くの従業員は、ホースマスク等の存在を知らなかつたもので、またこれを着用して作業すべき旨指示されたこともなく、このことは褜吉についても同様であり、同人もホースマスク等を使用して作業したことはなかつたことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

(三)  ところで、予防規則三三条一項二号は、同規則六条の規定により全体換気装置を設けた通風が不十分な屋内作業場における業務に労働者を従事させるときは、当該業務に従事する労働者にホースマスク又は有機ガス用防毒マスクを使用させなければならないとしている。これを本件についてみれば、本件作業場は右認定の如き構造を有する場所であるから通風が不十分な屋内作業場と認められ、また本件作業場における業務は全体として有機溶剤等(本件の場合は主に第二種有機溶剤である。)を用いて行なう物の面の加工の業務(予防規則一条三号ホ)に該るものと認められる。そこで、まず、通常の作業についてみると、通常作業中は本件作業場の全体換気装置および塗布室やドライヤーの局所排気装置も作動していたもので、ドライヤー内から有機溶剤蒸気が一時漏れていたこともあつたが、ほぼ発散源は密閉されていたものであるから、この場合にはホースマスク等保護具の使用を要しないものである。次に、ドライヤー内の払拭作業についてみると、同作業が右の物の面の加工の業務の一部と解され、またドライヤーを開放して右作業をする際には蒸気の発散源は密閉されておらず、全体換気装置は作動しているものの、ドライヤー内の局所排気装置も停止していたのであるから、右作業の際には予防規則三三条一項二号の対象となりうる。そこで、右作業をする場合に同規則二条一項二号によつて右規定の適用を除外されるものであるか否かについて検討すると、本件コーターにおける一日当りの有機溶剤の使用量については、少なくとも昭和四八年八月当時におけるそれが、塗布作業において一時間当りの磁性塗料の使用量が56.4キログラムであり、このうち有機溶剤は六一パーセント含まれていたのであるから、一時間当りでは34.404キログラムとなり、これに一日の実働時間七時間三〇分であることからすると、一日当り少なくとも258.03キログラム使用していたことになり、また払拭作業における一回当りの洗い液の使用量は六〇グラムであり、一日少なくとも三回は右作業をしていたものであり、これをグループ員三名が平均して行なつていたとしても、一人当り一日六〇グラムは使用していたことになるから、有機溶剤の一日当りの使用量は少なくとも258.09キログラムを下回らなかつたものと認められる。他方塗布室を除いた本件作業場の気積は890.27立方メートルであつたから、同規則二条一項二号により、本件作業場の一日当りの許容消費量を求めると約七四一グラム(グラム以下切捨)となり、これを右使用量に対比してみると、本件作業場における有機溶剤の一日当りの使用量は、その許容消費量を遙かに上回つているのであるから、同規則二条一項二号の適用除外とはなり得ないものである。してみると、ドライヤー内を払拭作業する場合には、同規則三三条一項二号に該当する業務といえることになり、被告は褜吉らにホースマスク等の保護具を使用させなければならなかつたものである。しかしながら、被告はこれが使用を指示したこともなかつたものであるから、同規則三三条一項二号の義務違反は明らかであるというべきである。

五褜吉の入院から死亡に至る経過

<証拠>によれば、褜吉の症状およびこれに対する中里医師の措置は、次のとおりであつたことが認められる。

1  褜吉は昭和四九年二月一三日に塩釜掖済会病院に入院したが、入院当時の診断名は急性肝炎ということであつた。

2  褜吉は、入院に先立つ同月一二日に同病院で種々の検査を受けたが、これによれば、黄疸指数六五、GOT五九一以上、GPT四五〇以上、ZTT20.4、TTT10.3、アルカリフオスフアターゼ19.5、A/G0.7等の、また入院後の同月一四日の検査によれば、ガンマーグロブリン39.5、オーストラリア抗原(一)等の、それぞれ結果が示されている。このほか、入院当時吐き気、食欲不振等をも訴えていた。なお入院当時のレントゲン検査では肺に異常は認められていなかつた。

3  そこで、主治医の中里医院は、褜吉に対し、主に肝臓疾患に対する治療を施したが、黄疸はますますひどくなる状態であつたことから、同月一九日よりリンデロン(ステロイドホルモン)三ミリグラムの使用を始めた。

4  しかしながら、その後も黄疸は軽減せず、全身倦怠感や吐き気、食欲不振、不眠等の訴えが続き、同月二七日の検査では、黄疸指数一六〇、GOT一〇八、GPT一四四、TTT8.3、アルカリフオスフアターゼ二二という結果が示されていた。

5  同年三月六日の検査によつても、黄疸指数八〇、GOT一二四、GPT一〇三、TTT8.3、アルカリフオスフアターゼ二一と、依然として黄疸は強く、このためステロイドホルモンの効果があまりないとして、同月一四日からリンデロンを二ミリグラムに減量した。

6  同月二〇日の検査では、黄疸指数三〇、GOT四六、GPT三七、TTT9.8アルカリフオスフアターゼ11.2となり、検査結果も好転しており、同月二五日には黄疸も軽減し、褜吉も気分が良いといつていた。

7  同月二七日から、下肢のむくみが始まり、発熱(摂氏38.5度)、手の震えが強くなる等病状が再び悪化し始めた。なお胸部レントゲンによると、肺に「淡い陰影」が認められた。

8  同月三〇日に訴えた頭痛は、その後一時訴えなくなつたが、同年四月四日には再び強く訴えるようになり、翌五日には頭痛のほか食欲不振も増強した。他方この頃には黄疸は消失してきていたため、右五日からリンデロンを一ミリグラムに減量した。

9  同年四月六日になり、症状はさらに悪化し、朝から意識障害が出現してきたので中里医師は肝性昏睡を疑い、抗生物質リンコシン六〇〇グラムの投与等肝性昏睡に対する治療を施したところ、同日午後になつて意識が回復した。なお、手の震えが羽ばたき振顫の状況を呈し、足のむくみがますますひどくなり、またナトリウム一二四・カリウム3.1、塩素80.3と電解質のアンバランスが著明となつた。

10  同月八日、再び意識障害や羽ばたき振顫が出たため治療を施すと、同月一〇日には意識が明瞭となつたものの、新たに腹水が出始め、夜間は摂氏38.9度の発熱があつた。また、翌一一日の胸部レントゲン検査によると、左下肺野に「淡い円形陰影」が認められた。同月一二日からデカドロン(ステロイドホルモン)八ミリグラムの点滴使用を始めた。

11  同月一三日に腹水を採取したところ、黄色混濁しており、同月一五日の採取の際には黄色濃厚で、同月二一日のそれは黄色混濁であつた。

12  同月一五日頃から、つじつまの合わないことを言い出す等意識の錯乱状態が始まつた。また、この頃から電解質のアンバランスに対する改善の治療も行なつていつたところ、改善の傾向が出て、気分の良い時期もあつたが、それも一時的なものであつた。

13  褜吉は、その後種々の合併症を併発したため、肝性昏睡、肝臓不全に対する治療のほか、これら合併症に対する治療をも施していたが、症状はますます悪化し、遂に同年四月二四日午後五時四五分塩釜掖済会病院において死亡した。

六死亡原因

1  丹羽教授の見解

<証拠>によれば、褜吉の死亡原因に対する丹羽教授の見解は、次のとおりであることが認められる。

(一)  褜吉の遺体は東北大学病理学教室において病理解剖に付され、右病理解剖に基づいて丹羽教授が剖検診断をなしたものであるが、同教授の剖検診断によれば、褜吉の病理解剖学的診断は「有機溶剤による肝障害と全身性クリプトコツカス感染症」であるとされ、その理由は「(1)肝左葉及び右葉1/3に特に著明な肝の瘢痕形成、肝実質出血、肝には高度め黄疸なし、極く軽度の全身性黄疸、(2)全身性クリプトコツカス感染症、(a)くも膜の混濁性肥厚を伴なう広汎なクリプトコツカス髄膜炎、著明な脳腸脹、(b)右肺下葉の鶏卵大空洞形成肉芽腫性病巣、両側肺各葉の示指頭大迄の肉芽腫多発、右肺下葉に著明な浮腫性出血肺炎、(c)傍皮質部髄質に特に著明に発生する多発性粟粒大膠様肉芽腫性腎病巣、両側腎の限局性壊死巣、(d)全身リンパ節広汎性膠様壊死性破壊、(e)多発性骨破壊性脊椎骨病巣、(f)多発性壊死性肝病脹、(g)十二指腸フアーター乳頭部膠様性壊死、(h)著明な甲状腺浸潤、(3)著明な広汎性胃腸管壁の浮腫と壁内出血、胆嚢壁浮腫、(4)十二指腸近位部の直径0.5cm、深い急性潰瘍形成、(5)著明な脾腫脹、(6)著明な副腎皮質のリポイド減少、(7)軽度結節性前立腺肥大、(8)著明な声門浮腫と食道潰瘍、組織学的所見―大小の幅を示す肝実質脱落巣の不規則な形成とその部の著明な出血、クリプトコツカス感染部を除く傷害肝には炎症性細胞浸潤なし、肝毛細胆管のわずかな胆汁栓、著明な肝実質の脂肪変性なし、肝内門脈部及び門脈周辺部の胆管増殖なし。」とされているのであり、右の剖検診断は、東北大学病理学教室の剖検会および総検査での検討を経たうえで出されたものである。

(二)  ところで、丹羽教授は、解剖によると、一番目立つ臓器の変化が肝臓であり、時に肝臓は全体的に少し小さくなつているほか、肝小葉中心に出血(この出血は二、三か月位前のものである。)が見られ、左葉の全部と右葉の三分の一位にこの瘢痕が見られること、それ以外にクリプトコツカスの感染が頭の髄膜、肺臓、肝臓、腎臓、全身のリンパ節、甲状腺等に見られ、甲状腺も目立つ変化があり、食道、十二指腸に潰瘍のできていたこと、副腎リポイドが減少していること等が主な所見であるとしている。そして、最も目立つ臓器としての肝臓について、褜吉の肝臓は、通常の肝臓と比べると、中心静脈の周りの肝細胞が脱落しており、この脱落は肝臓の方からすれば、これだけでは死亡しないにしろ、高度な障害像であつて、右の脱落した部分は瘢痕となつてはいるが、この瘢痕の形成は新しいので出血しており、なお瘢痕が形成されたからといつて肝臓が修復されてきていると認めることはできない。右の中心静脈の周りの肝細胞脱落は、肝炎の場合にも起こるが、肝炎の場合にはこの他にグリソンの周りやその中間帯の細胞も障害を受ける。ところが、褜吉の肝臓は、右の中心静脈の周りがひどく、これがグリソンの方にまで広がつているのが見られるものの、肝炎に見られるような炎症所見が全く見られない。また、発症から二か月前後の肝炎の場合には、グリソンの中或いは肝実質の中にリンパ球とか巣該細胞とかの炎症性の細胞浸潤が必ずあり、グリソンと肝細胞の境あたりもかなり破壊されるのが普通であるほか、類洞の内皮細胞特にクツパー細胞が膨れてくるのであるが、褜吉の肝臓にはグリソンと肝細胞の境目がきちんと保たれているほか、右のような症状が全く認められない。

(三)  また、丹羽教授は、褜吉の肝障害を有機溶剤によるものと認めたのは、褜吉の職場の状況を聞き、同人が有機溶剤を扱つている人であるほか、右に述べたように、褜吉の肝臓には打抜いたような肝小葉中心部の肝細胞の脱落と何等炎症性の変化が認められなかつたということが大きな理由であり、このほか褜吉は有機溶剤以外に肝障害を生ずるような薬剤を用いたことがなかつたことも理由であるとする。そして、ウイルス性肝炎については、肝小葉中心も脱落するかもしれないが、この他グリソン部分等にも実質の肝細胞の脱落があり、脱落せず残つた肝細胞は配列が乱れ、更に類洞の部分のクツパー細胞が膨れてくるし、グリソンの所の炎症性の細胞浸潤或いはグリソンからさらに肝小葉の中へ入つた炎症性の細胞侵潤というものが出てくるのである(グリソンに出る細胞浸潤はほかの部分が良くなつても最後まで残る。)が、褜吉の肝臓にはこれらは全く出ていないから、ウイルス性肝炎は否定できるし、また、アルコール性の肝硬変症の場合には、グリソンからグリソンへと結ぶような結合織の増生があり、その結合織の増生の一部から、具体的にはグリソンから肝小葉中心部へ橋渡しをするような結合織の増生があるから、出来上つたアルコール性の肝硬変症は脂胞をもつた肝細胞が比較的小さな固まりとなつて肝臓の中に散らばつてくるのであるが、褜吉の肝臓にはこれが認めらないから、アルコール性の肝硬変症であることも否定できるとする。さらに、肝癌については、まず癌細胞が出てくるのであるが、褜吉の肝臓には癌細胞はないから、肝癌であることも否定できるとする。

(四)  さらに、丹羽教授は、クリプトコツカスは真菌の一種であつて、大体は体が衰弱したときに感染し、特に白血病、悪性リンパ腺腫、肝臓障害の場合によく二次的に(原疾患があつて)かかり易いことで有名な病気であり、褜吉の場合も肝臓がやられないので、まずクリプトコツカスに感染したということは、顕微鏡や肉眼で見ても考えられないことである。なお、クリプトコツカスの発見については、今までの経験からいうと、臨床段階で気が付いている例は極めてまれであつて、解剖し始めてわかるという例が多いとする。

(五)  丹羽教授は、以上述べたところから、病理学的には褜吉は有機溶剤による高度の肝障害を起こし、これによつて体が衰弱したところに、二次的にクリプトコツカスに感染し、このクリプトコツカスによつて死亡したものであるが、有機溶剤による肝障害がなければクリプトコツカスに感染することもなく、したがつて死亡することもなかつたものであるとの結論を導き出しているのである。

2  ところで<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一)  化学物質による肝障害発生を診断することは必ずしも容易なことではないが、肝細胞障害が強くて炎症反応の乏しい型は肝生検によつて容易に診断することができる。ところで、多くの薬物または毒物は小葉中心部壊死を引き起こし、小葉中心部壊死は程度が強くなると、その壊死が小葉周辺部にまで及び、ついにはグリソン鞘のやや増生した小胆管以外の上皮性細胞が全く消失してしまう状態になる。この場合伝染性肝炎や血清肝炎などの急性肝壊死と異なるのは、小葉内またはグリソン鞘における間葉系細胞反応に乏しいことである。すなわち、小葉内におけるクツパー星細胞の増生、グリソン鞘における細胞浸潤などは典型的なウイルス性肝炎の症状に比較するとはるかに少ない。肝炎の場合におけるグリソン鞘の細胞浸潤は、肝炎の基本的な形態学変化の一つであつて、浸潤細胞は主として単核のリンパ球様の細胞である。また肝炎においては、シソヌイド壁細胞特にクツパー細胞に強い変化がみられ、クツパー細胞はその数を増し貧食、膨化などの所見を示す。なお急性ウイルス性肝炎は元来良性の疾患であり、伝染性(流行性)肝炎の八〇ないし九〇パーセント、血清肝炎の七〇ないし八〇パーセントはおおむね三か月前後、おそくとも六か月後には機能的にも形態的にも治癒する。肝炎の回復期の変化としては、肝細胞の変性や壊死、それにクツパー細胞の動員はほとんどなくなるが、グリソン鞘の細胞浸潤は比較的あとまで残る。胆汁うつ滞型の肝炎は、組織学的にも毛細胆管内の胆栓および肝細胞内への胆汁うつ滞像が著しく、この管内胆汁うつ滞はウイルス性肝炎でみられることが多いし、普通の型の急性ウイルス性肝炎に比較して黄疸は強いがそれ以外の点では軽症である。発症時の発熱、食欲不振、全身倦怠態などの普通のウイルス性肝炎とほとんど同じ自覚症状がみられるが、一般に軽症である。しかし、掻痒が強く、黄疸は普通の型より長く二ないし六か月或いはそれ以上も持続する場合がある。このほか、アルコール性肝炎は、組織学的には著明な脂肪浸潤と急性炎症反応(広汎な肝細胞の変性壊死、細胞の変性壊死、細胞浸潤、アルコール硝子体)を呈する。

(二)  クリプトコツカス症は、真菌症の一つとされているもので、報告症例九五例のうち基礎疾患のあるもの(続発例)五〇例、ないもの(原発例)四五例であり、このうち、続発例の基礎疾患としては血液病(白血病、再生不良性貧血等)、悪性腫瘍(癌、肉腫等)などのほか、肝疾患によるものが五例報告されている。

ところで、真菌の病原菌としての菌力は弱く、人は真菌に対して強い自然免疫を持つていることから、従来真菌症はまれな疾患とされていたが、近年における他の疾病治療のための抗細菌化学療法の進歩、副腎皮質ホルモン剤の使用、抗腫瘍剤の使用等による、患者側の抵抗力の減弱が原因となつて、真菌性が増加している。このうち、副腎皮質ホルモン剤の濫用による生体の抵抗性減弱化による真菌症の発症は疑う余地がなく、このような基礎において惹起された真菌症は重症化し、致死的感染に発展する傾向が多い。なお全身性クリプツトコツカス症は、中枢神経系、リンパ系および肺のほか、他臓器が犯される場合をいい、末期感染的な症例にはこの病型が多いし、さらにクリプトコツカス症は、生前に診断がつかず剖検によつて初めて発見された例が九五例中五三例と多く、この他倍養によるもの四〇例、手術によるもの二例が報告されている。

右に認定した肝障害の症状およびクリプトコツカスの症状等に、前記した被告の本件作業場における環境等を考え合わせると、右に記した丹羽教授の見解には、合理性があり納得しうるものがあるというべきである。

3  高橋名誉教授の見解

(一)  <証拠>によれば褜吉の死亡原因に対する東京慈恵会医科大学高橋忠雄名誉教授の見解は、次のとおりであることが認められる。

高橋名誉教授は、褜吉の死亡原因について、「(1)本症例の死因はクリプトコツカス症ことにクリプトコツカス髄膜炎と考える。(2)本症例で死前二ケ月に亘つて存在した黄疸および臨床検査異常値は、胆汁うつ滞型のウイルス肝炎と診断するのが妥当であろう。死者の意識障害、その他の症状は肝性昏睡とは考え得ない。したがつてこの例は劇症肝炎の定義からは外れるものとする(劇症肝炎とは次の項のいずれかをみたすものをいう。(一)剖検により急性または亜急性肝壊死と診断されたもの。(二)発病から2ケ月以内に肝不全と精神神経症状を呈したもの。ただし、肝硬変あるいは肝癌の存在が認められたものは除く(厚生省特定疾感調査研究連絡協議会)。)。(3)この例が有機溶剤による中毒性肝障害であつたとする根拠は、臨床的にも病理形態学的にも認められない。」とされている。

すなわち、高橋名誉教授は、褜吉の直接の死亡原因はクリプトコツカス髄膜炎であるとされ、また同人の肝障害は有機溶剤によるものではなく、胆汁うつ滞型のウイルス肝炎であるとの結論を示されている。

(二)  ところで<証拠>によれば、高橋名誉教授は肝臓学における権威者とも認められる。したがつて同名誉教授の右見解も十分に傾聴すべきであることは否めないところである。しかしながら、右の結論を導くに至つた理由については、その鑑定経過によるも、その理由づけが必ずしも明確ではなく、本症例の直接の死亡原因が何故クリプトコツカス髄膜炎によるものなのか、また本症例の死前二か月に亘つて存在した各症状が何故胆汁うつ滞型のウイルス肝炎と診断され、有機溶剤によるものとは認められないのかについては、必ずしも納得しうる理由が示されているとはいえないし、さらに鑑定経過中に有機溶剤による肝障害を否定する理由として述べている。有機溶剤による肝障害が人で起こることは極めて稀であるとの部分も、<証拠>によれば、四塩化炭素、ジメチルホルムアミド、四塩化エチレン等による肝障害の事例が存することが認められることに照らし、納得しえないところである。そして、右の結論は、被告提出にかかる各書証をもつてしても、いまだ理由づけに成功しているとはいえない。したがつて、高橋名誉教授の見解は採用することができない。

七被告の責任

1  雇用契約は、労務の提供と報酬の支払とをその基本的内容とする双務有償契約であるが、通常の場合、労働者は、使用者の指定した労務給付場所に配置され、使用者から提供された設備、機械、器具等を用いて労務の給付を行なうものであるから、雇用契約に含まれる使用者の義務は、単に報酬の支払に尽きるものではなく、右提供にかかる諸施設から生ずる危険が労働者に及ばないよう労働者の安全を保護する義務も含まれているものというべきである。これを本件についてみれば、前記のように、本件作業場においては、人体に有害な有機溶剤が多量に使用されていたのであるから、被告としては、労働者に対し、有機溶剤の取扱いに対する注意を日頃から徹底させるような安全衛生教育をなし、また、有機溶剤の気中濃度を適確に測定し、作業場の安全な環境を保持すべきであり、さらに、特殊健康診断を所定のとおり実施し、労働者の身体の異常を適確に把握すべきであり、少なくともドライヤー払拭作業の際にはホースマスク等の保護具を使用させ、労働者の生命、身体の安全を図るべきであつたのであり、これらは本件作業場のような有機溶剤を用いる作業場において労働者を就労させる場合に、労働者の安全を保護するため使用者に課せられた義務であるというべきである。しかるに、被告においては、これらの義務を十分に尽すことなく懈怠していたものであるから、褜吉に対する雇用契約上の義務違反は明らかであるというべきである。

2  訴訟上の因果関係の立証については、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することで足りると解すべきである(最二小判昭和五〇年一〇月二四日民集二九巻九号一四一七頁参照)。これを本件についてみると、前記のように、褜吉は、被告に採用される以前は健康体であつて、これといつた既応性もなく、被告に採用されて以降も、本件発病によつて入院まで欠勤したことは一度もないし、被告の実施した一般健康診断や特殊健康診断の結果も良好であつたこと、仕事は真面目で几張面な性格であつたことから、ドライヤー払拭作業や塗布装置洗浄作業において、顔をドライヤー内に入れたり、塗布装置に顔を近づけて行なつていたため、右各作業に際し、有機溶剤を多量に暴露吸引していたものであること、本件作業場の職場環境も、ドライヤーや磁性塗料を塗布されたテープが剥き出しのまま走行していた塗布部とドライヤーの間等から有機溶剤蒸気の漏出したこともあつたこと等、褜吉の勤務していた当時、必ずしも良好なものではなかつたこと、被告が使用している有機溶剤のうち一部のものに肝毒性を有するものがあること本件以降において四名の有機溶剤による肝機能有所見者が出ていること、褜吉の肝障害と死亡原因に関する丹羽教授の見解も合理的で納得しうるものであること等を総合すれば、褜吉が作業中に、被告の本件作業場で使用している有機溶剤によつて肝障害を起こしたという確実な自然科学的証明はないにしろ、本件各証拠によるも同人には他に肝障害を起こすに足る原因があつものとは認められないことを考慮すれば、経験則上、褜吉の肝障害は、本件作業場における有機溶剤に起因したものと認定するのが相当であり、直接の死亡原因となつたクリプトコツカス症も、褜吉が肝障害によつて体力の衰えているところに二次的に発症し、これが全身に病巣を拡げ、遂に死亡に至つたものと認定するのが相当である。したがつて、褜吉は肝障害に陥らなければクリプトコツカス症に罹患することもなく、死亡することもなかつたものというべきであるから、クリプトコツカス症によつてその因果関係は切断されない。

よつて、被告は褜吉が死亡したことによつて原告らの被つた損害を賠償すべき義務があるというべきである。

八損害

1  褜吉の逸失利益と相続

褜吉が死亡当時三五歳(前掲甲第五八号証によると、生年月日は昭和一三年五月一日であることが認められる。)であつたことは当事者間に争いがなく、これと前記認定事実によれば、褜吉は、死亡前の昭和四九年四月一九日まで被告に勤務し、当時固定給(月額)一万四〇〇〇円、作業給(時間給)三一二円、皆勤手当(週)一〇〇〇円の支給を受けていたこと、褜吉の勤務形態は、三グループにより昼間勤務(午前八時三〇分から午後五時まで)、夜間勤務(午後四時三〇分から翌朝九時まで)、みなす明けを交替で行なつていたこと、同人は健康で被告に在勤中一度も欠勤したことがなかつたものである。また、被告のような会社に勤務している従業員が賞与として、少なくとも一年間に右給与一か月分の三倍を下らない額の支給を受けていたものであることは顕著な事実である。

ところで、逸失利益の算定に当つては、安易に統計資料によるべきではなく、被害者がいまだ就労年令に達していない等、他に算定の基準となり得るもののないやむを得ない場合に限つて統計資料によるべきであり、既に就労年令に達し、かつ現実に死亡直前まで就労して給与を得ていたような場合には、逸失利益の算定については右現実の給与を基準とすべく、賃金センサスを基準とすることは相当でないというべきである。これを本件についてみると、前記認定のとおり、褜吉は死亡当時三五歳であつて、死亡直前まで被告に勤務して所定の給与を受けていたものであるから、逸失利益の算定については、右の現実に得ていた給与を基準とすべきであり、賃金センサスによるのは相当でない。したがつて、褜吉の逸失利益は、次のとおりである。すなわち、同人は昼間勤務・夜間勤務・みなす明けという勤務形態に服し、右勤務形態は一か月八回あつたものであり、同人の時間給は三一二円であるから、その一か月における収入は六万二四〇〇円(((8.5+16.5))×8×312)となり、これに同人は健康で在勤中一度も欠勤したことがなかつたことを考慮すれば皆勤手当をも取得したであろうからその月額は四〇〇〇円(1000×4)であり、さらに同人の固定給は月額一万四〇〇〇円であるから、これらを合計すると同人は月額八万〇四〇〇円の収入を得ていたものであるが、褜吉の生活費を右収入額の四分の一としてこれを控除した六万〇三〇〇円が月額純収入となり、年額では七二万三六〇〇円(60300×12)となるから、これに年間の賞与二四万一二〇〇円(80400×3)を加えると、その年間純収入は九六万四八〇〇円となる。ところで、褜のは当時三五歳で爾後六五歳まで三〇年間は就労し得たものであるから、ホフマン方式計算(三〇年の係数18.0293((以下切捨)))により、褜吉の死亡時における逸失利益の現価を求めると一七三九万四六六八円(円未満切捨)となる。なお、労働者の賃金が毎年若干上昇することは通常であるけれども、本件においては原告らより褜吉の賃金が昇給することについての具体的主張立証がないから、褜吉の逸失利益の計算において昇給の点を考慮に入れないこととする。

ところで、褜吉の相続人が原告ら三名であることは当事者間に争いがないから、原告らは右逸失利益の各三分の一に相当する五七九万八二二二円(円未満切捨)の請求権をそれぞれ相続により取得したことになる。

2  慰藉料

前記した褜吉の年令、職業、原告らとの関係その他本件に顕われた諸事情を考慮すると、原告らの被つた精神的損害に対する慰藉料の額は、原告サカエについて四〇〇万円、原告由美子、同健一については各二〇〇万円と認めるのが相当である。

3  弁護士費用

争いのない事実と弁論の全趣旨によれば、原告らは本件損害賠償の任意支払を受けることができず、本訴訟の提起追行を弁護士である原告ら訴訟代理人に委任し、その報酬として原告ら主張の金員の支払を約したことを認めることができ、本事案の内容、審理経過、認容額等に照らし、右金員のうち、原告らが被告に対し本件債務不履行に基づく損害として賠償を求めることができる額は、原告サカエについて九〇万円、原告由美子、同健一について各七〇万円をもつて相当とする。

九結論

以上のとおりであるから、原告らから、原告らの報被告に対する本訴請求は、原告サカエについて一〇六九万八二二二円、原告由美子、同健一について各八四九万八二二二円および右各金員に対する褜吉死亡の日である昭和四九年四月二四日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるからこれを正当として認容し、その余の請求は失当として棄却する。

よつて、民事訴訟法九二条、九三条、一九六条をそれぞれ適用し、なお仮執行免脱の宣言は相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(石川良雄 松本朝光 栗栖勲)

別表(一)     遺失利益計算表

年度

年令

月額給与

期末手当等

年間収入

逸矢利益現価

(ホフマン式計算方式による)

昭和(年)

四九(五~一二月)

三五歳

一五二、七〇〇円

五五二、一〇〇円

一、七七三、七〇〇円

一、六八八、五六二円

五〇~五三

三六~三九

一五二、七〇〇

五五二、一〇〇

二、三八四、五〇〇

八、一三五、九一四

五四~五八

四〇~四四

一六一、一〇〇

六〇七、九〇〇

二、五四一、一〇〇

九、〇九九、六九七

五九~六四

四五~四九

一六六、二〇〇

六四六、六〇〇

二、六四一、〇〇〇

八、〇一八、〇七六

六五~六九

五〇~五四

一七四、四〇〇

七二五、四〇〇

二、八一八、二〇〇

七、四二五、九五七

七〇~七四

五五~五九

一四八、六〇〇

五四八、五〇〇

二、三三一、七〇〇

五、四二八、一九七

七五~七九

六〇~六四

一一九、九〇〇

四〇二、三〇〇

一、八四一、一〇〇

三、八三八、六九三

八〇~八四

六五

一〇三、五〇〇

三一三、四〇〇

一、五五五、四〇〇

六二二、一六〇

合計

四四、二五七、二五六

別表(二)

本件コーター附近の有機溶剤気中濃度測定値

(1)昭和四八年一〇月八日実施の測定結果(単位PPM)

測定場所

塗布機前

巻出し作業者位置

巻取り作業者位置

メチルエチルケトン

21.6

7.5

2.5

トルエン

1.07

1.22

0.38

シクロヘキサノン

0.30

0.44

0.20

混合溶剤

総合評価値

0.131

0.067

0.024

(2)昭和四八年一二月七日実施の測定結果(単位PPM)

測定場所

塗布機前

巻出し作業者位置

巻取り作業者位置

メチルエチルケトン

6.92

1.95

0.92

トルエン

0.16

1.08

0.49

シクロヘキサノン

0

1.33

0

混合溶剤

総合評価値

0.037

0.034

0.010

別表(三)

種類

磁性塗料  A

磁性塗料  B

組成名

重量比

組成名

重量比

磁性粉

酸化鉄粉

約二五%

酸化鉄粉

約二五%

溶剤

メチルエチルケトン

約四〇%弱

メチルエチルケトン

約三〇%

シクロヘキサノン

約二〇%強

シクロヘキサノン

約一〇%弱

トルエン

約二〇%強

接着剤

ポリ塩化ビニール酢酸ビニール共重合体、

ポリウレタンその他固形分

}約一〇%

ポリ塩化ビニール酢酸ビニール共重合体、

ポリウレタンその他固形分

}約一〇%

ジメチルホルムアミド

約四%弱

ジメチルホルムアミド

約三%強

メチルエチルケトン

約一%強

メチルエチルケトン

約三%弱

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